大学進学は投資か/純丘曜彰 教授博士
/もはや大学は、フローのキャッシュリターンに関し、期待値として割が合わない。だが、結婚や子育て、勉強や仕事は、経験として確実にストックになる。より良い一生を得るためには、むしろこれらにより多くのカネと時間と労力を投資することが必要だ。/

 大学は、学費や生活費、その間の逸失利益(働いていれば得られたはずのおカネ)を考えると、四年で相当な金額になる。にもかかわらず、大学を卒業したからと言って、確実に高給の就職ができるわけでなし、高卒などに比して生涯賃金の差額で元を取れるかどうかも怪しい。直観的には、なにか手に職を付けた方が、喰いっぱぐれも無く、それで自営の事業でも興した方が、しがない大卒サラリーマンよりはるかに収入が多いのではないだろうか。というわけで、今の時代、ほぼまちがいなく、大学は投資としては割に合わない。ただし、この話、前提が正しいのかどうか疑った方がいい。投資という話の中では理屈があっているとしても、投資であるという前提が間違っているのではないか。

 たとえば、運転免許。取得には数十万円もかかる。だが、普通免許ごときでは、それで給与を割り増しにしてくれる会社など、どこにも無い。それどころか、車の免許があるせいで、公共交通機関を使わず、ムダに遠出のドライブをしてガソリンを浪費し、さらには、それほど乗る機会も無い車を買って、その価格と維持費で、とてつもないカネを支出することになる。つまり、免許は、ムダな支出を増大させる元凶であって、投資としては絶対に割が合わない。だが、免許だけではない。旅行や語学もそうだ。出張でもあるまいに、自分で旅行に出て、費用以上の収益が出ることなど、ありえまい。語学も、プロの通訳にでもならないかぎり、元など取れるわけがない。

 結婚や子育ても、同様。そんなもの、投資としては、絶対にしない方が得だ。いまどき、結婚で夫や妻から得られるサービスなど、家事でも、気遣いでも、プロの業者にかなうわけがない。まして、子育てなど、投資としては、まったくのムダ。いまどきの子供に、親の恩の見返りを期待する方が間違っている。

 にもかかわらず、なぜ人は、ムダを承知で、結婚し、子育てをするのか。人生の目標が財産で、より多くのカネを貯めればいいだけなら、棺桶に大金を詰め込んだやつの勝ちだろう。だが、家族も無く、身寄りも無く、一人寂しく大金を残して死んでいって、なんの意味があろうか。しょせんカネは使うものだ。あの世には持っては行けない。ババ抜きのババと同じ。人生の外貨。稼いだだけ、うまく使い切ってこそのもの。結婚し、子育てをし、壮大な人類の歴史の一隅に参画する。

 大学というのも、似たところがある。世界中の人々が営々と築き上げてきた知の世界。そんなもの、知らなくても、死にはしないし、知ったところで、さして役に立つわけでもない。収支としては、出費だらけ。だが、それは知の世界を巡る、一生に一度の贅沢な周遊旅行。行かれるなら、行かれるときに行っておいた方がいい。そんなチャンスは、人生に二度と無い。

 そもそも、投資を、フローのキャッシュリターンだけで計っているのも、会計的に間違っていないか。免許同様、結婚、子育ては、跡形無く消え去ってしまうような、ただの消費とはワケが違う。経験としてストックになる。ただし、それは、本人固有、唯一無二のものであって、免許同様、再流動化してカネで他人に売り渡したりはできない。旅行や勉強、さらには仕事ですらそうだろう。これらによってこそ、私は私になることができる。

 勉強も、仕事も、結婚も、子育ても、その経験を生きてきたというリターンを絶対確実に得られる手堅い投資だ。だから、むしろより多くのカネと時間と労力を割いても、一回限りの人生で、より良い自分の一生を得るために、大いに投資すべきだ。その投資をケチれば、たとえより多くの現金を棺桶に残せても、あなた自身は、何者にもなれなかった、ムダで惨めな、ババ掴みの一生で終わることになってしまう。

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)