「鶏は殺してない」「島倉からの搾取」溝口敦氏が『地獄に墜ちるわよ』で指摘する“細木数子の真の姿“

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〈Netflixで配信中のドラマ『地獄に墜ちるわよ』の勢いが衰えない。配信開始から1ヵ月以上が経つが、週間ランキング(シリーズ部門)では6週連続で日本1位を獲得。シンガポールや韓国など7ヵ国でトップ10入りを果たすなど大ヒットとなっている。しかし、ドラマはあくまでも“フィクション”であり、実際の細木数子像とは異なる点が多数ある。『細木数子 魔女の履歴書』の著者である溝口敦氏が、当時の取材をもとに、ドラマで描ききれなかった細木の素顔に迫る〉

ドラマ『地獄に墜ちるわよ』が、私が前に出した『細木数子魔女の履歴書』と、細木の自伝『女の履歴書』を参考文献にしていることはドラマのタイトルにも記されている。

私の本はもともと『週刊現代』での連載が元になっているのだが、細木は連載を知ると、虚偽の記載で細木の名誉を著しく毀損していると、’06年6月、6億円余の損害賠償を求める裁判を版元の講談社に対して起こした。書き手の私はなぜか訴えられなかったが、裁判に補助参加して細木に反証、細木はついに’08年7月、勝訴することを諦めて訴訟を取り下げた。

つまり細木はこの取り下げによって以後、私が指摘した細木についての数々の事実が虚偽であるとは主張できなくなった。『地獄に墜ちるわよ』の後半は私が剔抉した事実に基づいて綴られているが、ドラマは「ここまで描いても亡き細木の名誉を傷つけることにはならない」という安心感の上に成立している。よって細木数子の後継者である占い師、細木かおり氏も細木が過去に成した「悪事」を虚偽だと主張することはできない。

ドラマで描かれた「子供時代は極貧」の真偽

ドラマ『地獄に墜ちるわよ』は前半で細木数子の子供時代から銀座、赤坂でのクラブやディスコのママ時代までを描いている。描き方は当たり障りなくと心掛けたのか、全体的に観念的で既視感が目立つ場面が多い。

たとえば数子が飢えのあまり生のミミズを食べたり、麦茶を進駐軍放出のビールと偽って業者に売りつけたりする場面がある。からからに乾燥させたミミズは漢方薬になるが、戦後の混乱時でさえ、どのように飢えていようと生のミミズを食べる日本人はいなかっただろう。脚本や監督を手掛けた人が若いのか、あまりに渋谷の戦後焼け跡、ヤミ市時代を知らなすぎる。

数子の家は渋谷・百軒店の、座布団売春を兼ねる飲み屋だった。その店で数子は中学時代からポン引きとして手伝っていた。1発1400円の売春で、兼業の従業員と半分ずつ分けていたから1回700円の稼ぎになった。彼女はひと晩2回ぐらい、客を店に引き込んでいたから、1日1400円の稼ぎになった。当時の失業対策事業はニコヨンといって1日の日当が240円だったから、それと比べて1400円がいかにいい稼ぎだったか自明だろう。

細木数子と彼女の家族は戦後一貫して食うに困るような貧乏は経験していない。戦後のドサクサ時であってもセックスへの需要はわんさかあり、当時しこたま儲けた闇屋、闇ブローカーと同じく周りに比べればリッチだった。

店の実質的な経営者は姉(弘恵)だったが、弘恵は名が通っていた安藤組の幹部、志賀日出也の女房だった。数子は子供のころから若い女性が性を切り売りすることに慣れ、それによってもたらされる利益にも慣れていた。彼女は経済的に貧しかったのではなく、性倫理上で貧しく汚れ、それが生涯続いたのだ。

‘62年、細木は24歳で銀座にクラブ「かずさ」をオープンする。

翌年、細木は静岡の老舗眼鏡店の跡継ぎ息子に一目惚れされ、結婚する。彼女はこの結婚を玉の輿と張り切り、花嫁修業として江上トミ料理学校に通い、草月流の華道や裏千家の茶道を勉強した。「かずさ」の経営は弟の細木久慶に任せてリース料を取る一方、世田谷区成城にベビー用品店「バンビーノ」を開店した。婚家には姑や小姑がいたため、嫁の細木に自由になるカネはなかろうと考えてのことである。

この結婚には歳相応の初々しさが感じられるが、やはり細木には地方の小金持ちの嫁は無理だった。彼女は嫁でいることを退屈極まると感じ、ともすれば経営する「バンビーノ」が気になり、東京に帰りたがった。新婚旅行の予定は1週間の箱根だったが、小涌園に1泊しただけで彼女は新郎を放り出し、帰京するほどだった。おそらく跡継ぎ息子も一目惚れで結婚したものの、細木はあまりに家格にふさわしくないと感じたのだろう。結婚3ヵ月で夫婦とも異議なく離婚を決意し、3年半後に籍を抜いている。

『地獄に墜ちるわよ』では静岡時代の婚家で細木がニワトリを捕まえ、殺す場面が出てくるが、いかにヒステリーを起こそうと、細木がニワトリを絞めることはあり得まい。離婚は夫婦間で円満に話し合いがつき、不思議なほど穏やかに両者は別れている。まして細木が農家育ちならともかく、都会の水商売の生まれ育ちである。自分でニワトリを絞める発想も出ないだろうし、経験したこともなかろう。言っては悪いが、この場面はドラマの監督、あるいは脚本家の見当外れの思いつきにすぎまい。

生田斗真が演じた「細木の恋人」の正体

細木と島倉千代子との絡みの本質は細木が島倉を食いものにしてカネを貯え、後の事業の原資にしたことにある。

両者の出会いを取り持ったのは東京・赤坂に住んでいた安部正明だった。安部は戦後しばらくの間、日劇のプロデユースなどを手掛けていたが、同時期に「特殊芸能団」を組織し、非営利で刑務所への慰問活動に従っていた。

安部は「政界、芸能界、暴力団にパイプを持つミニフィクサー」とでも呼ぶべき人物で、各界の錚々たる人物も安部家に出入りしていた。政治家では福田赳夫、安倍晋太郎、春日一幸など。芸能界では美空ひばり、都はるみ、松尾和子、扇ひろ子など。やくざの世界では稲川聖城、稲川裕紘、石井進、浜本政吉、小林楠扶など。こういう中に細木数子やその姉・弘恵、細木の内縁の夫、小金井一家総長の堀尾昌志も加わっていたわけだ。

島倉千代子は’55年「この世の花」でデビューしたが、作家の宇野千代から「応援してよ」と声を掛けられて以来、安部家に出入りしていた。彼女は非常に男に惚れやすい性格で、当時は東京・五反田の眼科医、守屋眼科の医師、守屋義人とつきあっていた。

守屋を深く信頼し、守屋に言われるまま手形の裏書きまでしたが、守屋が倒産して蒸発すると、島倉が彼の2億4000万円にも及ぶ債務を引っかぶることになった。島倉千代子は’77年、新宿コマ劇場に出演していたが、そこには守屋の債権者が多数押し寄せ、島倉から守屋に貸した金を取り立てようとした。彼女は楽屋から出られないと安部に電話し、安部は「よし、待ってろ。助けに行ってやる」と千代子を安部家に連れ帰って匿った。

「送り迎えぐらいしてやる」

ところが島倉の公演は千秋楽まで打ちきりにはできない。それで安部が連日、千代子をコマ劇場まで送り迎えしていた。ちょうどそのころ細木夫婦が安部家に遊びに来て、千代子の事情を知ると、「こっちは昼間何もすることがなく、遊んでるんだから、千代さんの送り迎えぐらいやる」と送迎役を買って出た。

そのころ細木夫婦はその日暮らしだった。赤坂にディスコ「マンハッタン」を開業していたが、細木が吹聴するようには儲かっていなかった。安部正明の夫人、倭文子(しずこ)が語っている。

「千代子を世話する1年前ぐらい、細木が傷だらけの指輪を持ってきて、どうしてもお金をつくらなければならない。これで100万円貸してと頼みに来た。うちの人はお金の貸し借りはしない。だけど細木と堀尾がよほど困っているようなので、知り合いの会社社長から100万円借りてやった。細木には『これは俺が貸すんじゃない。絶対返せよ』と念を押してました」

こういう苦境にいた細木にとって、島倉千代子はまたとない金づるに見えたろう。細木は千代子を送り迎えするうち彼女に取り入り、千代子の身柄を安部家から細木と堀尾が住むマンションに移し替えた。彼女は千代子という金づるを手元に置き、逐一管理することに成功したのである。

以後、3年間細木は千代子に同居生活を強い、借金の返済をムチに千代子を鵜飼いの鵜に仕立て上げていった。細木は島倉千代子を助けたと主張したが、実際には逆、その間、島倉をカネのなる木として絞り、巨額を儲けた。

細木はおおよそいくら島倉から収奪したのか。島倉千代子を古くから知る芸能プロの幹部が細木の実入りを概算する。

「3年間にはテレビ出演もあったでしょうが、テレビは衣装代などでよくてトントン、普通は持ち出しですから、勘定に入れなくていい。稼ぎは地方巡業がメインですけど、月10〜12日稼働できる程度でしょう。島倉は楽団込みのパッケージじゃなかったから、移動が楽でもう少し稼げる日があったかもしれない。仮に月13日とすれば、年間156日稼げた計算になる。

当時の1日(1回分)のギャラは300万〜400万円程度です。中を取って当時のギャラを350万円とすれば、年間5億4600万円ですよ。この間、細木は月に50万円しか島倉に渡していなかったから、まあ税金を払っていたにしろ、年に3億円は自分の懐に入れていたでしょう」

レコード会社にも2億円を要求

それが3年間だと9億円になる。他方、島倉の借金数億円の返済に充てたカネは、細木の言い分はその時々さまざまに変化したが、せいぜい1億5000万円がいいところと推定できるという。コロムビア・レコードの関係者が証言する。

「債権者会議を仕切ったのは堀尾昌志で、倒産整理屋に仕立てたのは堀尾の後、新宿のシマを譲った小金井一家新宿東初代組長の矢島武信だった。返したのは債務額のよくて3割、1億5000万円ぐらいで全部話をつけたんじゃないか。倒産の場合、返済額は平均1割以下だから、3割の戻しでも上出来です」

細木が島倉を抱え込んだ3年間で、おおよそ7億5000万円を掠め取った勘定になる。「いや、それだけじゃない」と前出のコロムビア関係者が言葉を継ぐ。

「島倉は細木のところから逃げ出し、興行権の仕切りもコロムビアに任せる。この時細木は『こっちは島倉に興行権も返すんだから』と、コロムビアから2億円を別にもぎ取っている」

つまり細木は島倉がらみで合計9億5000万円以上を稼いだことになる。しかも細木は島倉千代子が持っていた赤坂7丁目の高級マンション、赤坂パークハウスの一室も横取りしている。バブル期には18億円もの値がついた5LDKの高額物件を競売でわずか1億5600万円で入手したのだ。細木数子のため、島倉千代子はこれほどまでひどい目に遭った。細木と切れた後も、なぜ千代子は細木を非難しなかったのか。

この影には堀尾昌志という存在がある。島倉は同居中に堀尾とでき、深夜、堀尾の寝ている部屋にそっと入り込んで堀尾の耳元で「おねえ(細木のこと)が全然お金をくれないの」などと訴えていたという。

細木もいくぶん気が揉めたのか、当時千代子と堀尾が間違いをしでかさないように島倉の手足を自分の手足に縛り付けて寝たなどと、ことさらに吹聴していた。だが、島倉と堀尾の一件も振り返ってみれば、細木が島倉からカネを絞る補助の役割、つなぎ止めにプラスの役割を果たしたことは間違いない。細木にすれば堀尾を怒る理由は何一つないわけである。

細木と堀尾の仲は一時冷えたようだが、堀尾の晩年、彼は細木の京都の豪邸を訪ねて、そのまま細木の世話になり、病身を養った。あげく墓まで細木家の墓の隣に建ててもらっているのだから、天国で結ぶほどの二人三脚ともいえよう。