昭和34(1959)年、聴取に応じていた当時のベルメルシュ神父

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【写真】白なのか黒なのか…2003年、カナダの教会で取材に応じたベルメルシュ神父

結局、白なのか黒なのか

第1回【「ほ、死んだですか。よい信者でした」 27歳女性変死「疑惑のベルギー人神父」が見せた“不可解な言動”【昭和の未解決事件】】を読む

 昭和34(1959)年3月10日の早朝、東京・杉並の善福寺川で見つかった若い女性の遺体。交友関係を洗った捜査本部は、5月に入りベルギー人男性の任意聴取を開始した。ルイ・ベルメルシュ神父、当時38歳。だが、神父は同年6月11日夜、突然に羽田から出国してしまった。

 この有名な昭和の未解決事件において、当時の捜査本部はどこまで真相に迫っていたのか。事件から23年後の昭和57(1982)年、捜査本部の主任警部だった加藤勘蔵氏は「週刊新潮」に対し、捜査の経緯を事細かに明かしていた。神父が日本を去ってから67年、加藤氏の目線で事件を振り返る。神父は結局、白なのか黒なのか――。

昭和34(1959)年、聴取に応じていた当時のベルメルシュ神父

(全2回の第2回:以下「週刊新潮」1982年8月19日号掲載記事を再編集しました。文中の年齢・肩書き等はすべて掲載当時の44年前のものです)

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尊敬できて何でも相談できる人

 捜査本部はほどなく、Tさんが〈隠れて付き合っていた相手〉はベルメルシュ神父であるとほぼ確信した。その根拠は数々の“状況”にある。

〈まず、Tさんの下宿先から発見された住所録に、Tさんの筆跡ではなく、英語でベルメルシュ神父の名前が書かれていたこと。さらに、乳児院の関係者を捜査したところ、Tさんは何度かベルメルシュ神父が運転する自動車(白いルノー)に乗せられて下井草教会までやってきたこと。また、Tさん自身が、先の看護婦に、「今度、尊敬できて何でも相談できる人が出来たが、その人とは結婚を前提としない」と話していたこと〉

 さらにもう1つ。

〈「今度のお休みにその人とドライブに行くのだけど、体の忙しい人でそう長い時間ではない。その人はいつも簡単に会えない人で、自家用車を持っている。私がこうした生活をしていることは誰も知らないのよ」と、そのホームの保母さんに話していること〉

“原宿で会う男”は神父以外にいない

 捜査本部はBOAC関係者からも情報を取った。

〈ロンドンに滞在していた2月7日ごろ、被害者は同僚の客室乗務員に、「お世話になっている神父さまに何を差し上げたらいいだろうか。神父様はよくルノーを運転なさるから、手袋がいいのではないか」と話をしたことがある。また、その神父様からの手紙と思われるものがロンドンに届くのだが、面白いことに、大きな封筒に、7、8百円くらいの切手が沢山張ってあって、「ドン・ボスコ社」と印刷してあった〉

 さらに上司夫妻によれば、事件直前までのTさんは、誰かと原宿で度々会っている様子だったという。

〈この相手がベルメルシュ神父かどうか、はっきりした裏付けは取れなかったが、原宿で会う男のために、運転に使う男物の革手袋をハンドバッグにしのばせて出かけたことは間違いない事実だった。私ども捜査本部の人間は、この“原宿で会う男”が、ベルメルシュ神父以外にいないという確信を持つに至った〉

神父がフトンの下から手を入れて

 しかし、捜査はなかなか進まなかった。そこで捜査本部は「ドン・ボスコ社」の内部に“協力者”をつくった。

〈仮にこの人物をA氏としておこう。A氏は、3月8日から10日までどこで何をしていたか、といういわゆる“行動表“を、神父から聞き出して作成してくれた。しかし、A氏の努力には感謝したけれども、一読してみて、このことがあると予想して作成したと思われるくらい整然としたものであった〉

 A氏の行動表を信じるのであれば、ベルメルシュ神父のアリバイは一応成立していた。他方では、神父に関する黒い情報が集まってきた。

〈乳児院のある保母が入院していたとき、見舞いに来たベルメルシュ神父が、フトンの下から手を入れ、陰部にさわろうとしたが、体をかわしたのでイタズラは避けられた。また、ある保母は、神父と応接室で話し中、突然、電灯を消してキスされたという。とにかく、神父のスケベぶりが耳に入ってきた〉

愛車ルノーのタイヤを全交換

 A氏作成の行動表によれば、Tさんが外出した8日、ベルメルシュ神父は夜8時に夕食を済ませ、D神父と四谷の「ドン・ボスコ社」へ。夜9時に杉並に戻り、夜10時に就寝となっているが、裏付けはない。

〈9日の夜9時半以降となると、自室に入って翌朝5時まで寝ていたことになっている。しかし、のちにわかったのだが、ベルメルシュ神父は、9日の夜9時ごろ下落合のガソリンスタンドで給油し、自室に帰って寝たことになっている。この給油はウラが取れて事実ということがわかった。しかし、夜9時以降のアリバイは依然不明のまま。

 そのうちに、ペルメルシュ神父がおかしな行動に出た。椎名町の「日野ルノー」に出かけ、ルノーのタイヤをスペア含めて5本、取り替えた。むろん、たいしていたんでるタイヤでもないのに、どうしてこんな行動に出たのか。新聞が当時、犯人は自家用車を使用ウンヌンということを盛んに書き立てていた。それが、神父を刺激したのかもしれない〉

 5月10日、捜査本部はベルメルシュ神父以外にTさんを殺害できる人物はいないという結論に達した。ただし、アリバイが崩れているわけではない。逮捕状が取れないため、翌11日の任意出頭となった。

原宿の“連れ込みホテル”で会話

〈さて、どこに呼ぶか。警視庁では目立ちすぎて新聞記者にわかってしまう。結局、当時、ビルは出来上っていたが、まだ警視庁へ引渡しがすんでなかった菊屋橋分室に呼ぶことにした。ここなら新聞記者も気がつくまい。この新築のビルが都合よかったのは、取調室にマジックミラーが付いていて(日本で最初だったと記憶している)、取り調べの状況が他の捜査官にもわかることだった〉

 出頭したベルメルシュ神父の立会人はバチカンの大使館の書記官だった。日本語が堪能な神父に通訳は不要だったが、神父は一冊の辞書を持参していた。

〈神父の供述によれば、被害者と知り合ったのは、1年前の昭和33(1958)年の7月、両国の花火大会に行ったころ、乳児院のシスターから紹介されて知った。その後、2、3回、「ドン・ボスコ社」にカトリック関係の書籍を買いに被害者が出入りしたとき、身の上相談を受けた。そして、11月の末か12月の初めごろ、西武線・下落合駅で会い、1回はドライブに行き、1回は高田馬場で映画を見た。客室乗務員の試験を受けることについても相談を受けたので、賛成した〉

 1月8日の朝も、Tさんの求めに応じて午前9時半ごろに原宿駅前で会い、駅前の「菊富士ホテル」に入った。11時ごろまでロンドンについて話をして別れたというが、このホテルは当時のいわゆる“連れ込みホテル”だった。

“オトシの八兵衛”にも崩せぬアリバイ

〈(Tさんが)ロンドンに行ってからは、2回ほど手紙を書いた。7、800円分の、皇太子殿下御成婚の記念切手を貼って送った。3月5日の朝、また会いたいと電話してきたので、午後2時ごろ原宿駅前で会い、ロンドンの土産だといってドライブ用の革手袋をもらった〉

 しかしベルメルシュ神父は、性的な関係だけは認めなかった。

〈「菊富士ホテル」という連れ込みホテルに入ったのも、寒かったので休憩しただけといった。あの“オトシの八兵衛”こと平塚八兵衛くんが、11、12、13日の3日間取り調べても、事件前後のアリバイは崩せなかった。なにしろ、神父は用心深かった。何か詰まりそうになると、持ってきた辞書を開いて、「正確な日本語は」といって考え込み、おかげでタイミングを外された〉

「捜査の神様」とも呼ばれる平塚八兵衛氏は、下山事件や帝銀事件、吉展ちゃん誘拐殺人事件、3億円事件など昭和の大事件も取り扱った捜査一課の名刑事。その平塚氏を相手にしても、ベルメルシュ神父は用心深さを貫き、出された茶も口にせず、鼻もかまず、取り調べ室の何にも触ろうとしなかった。

 任意の取り調べは5月20日と21日にも行われたが、物的証拠はなかった。そこで捜査本部は神父の血液型を確認するため、神父が使ったティッシュを持ち出すよう頼んだ。Tさんの下着に付着していた体液から、犯人の血液型はA型かAB型とみられていたからだ。

「最後のツメ」をする前に出国

 そして届いたのはハンカチだった。

〈“協力者”は、ベルメルシュ神父が捨てた鼻をかんだハンカチを見つけ出し、捜査員に渡した。鑑定の結果は……どうなったかというと、これが意外にも、A型でもAB型でもなかった。Oまたは非分泌型というヤツであった。しかし、“協力者”が持ち出した神父のハンカチが、まこと神父のものであったのだろうか。私はいま一つ疑っている〉

 捜査班はもう一度、神父を呼んで「最後のツメ」をする予定だった。神父本人にも伝えて了承を得ていたが、6月11日午後7時半、神父は羽田空港から飛び立った。

〈正午ごろ、例の“協力者”から羽田へ神父が向ったという連絡を受けたが、すでにすべては遅かった。逮捕状が取れないのだから仕方がない〉

 こうして神父に対する捜査は終わった。神父は状況的にほぼ“容疑者”とみなされていたが、捜査中も明確にならなかったのは動機である。

〈私の推理では、神父は被害者を“自分の女”として囲うつもりだったが、彼女は、それでは結婚できないと断ったのではないか。あくまでも痴情がからんだ事件と思う。バチカンの工作による密輸の協力を断わったため殺されたと小説では書かれたが、私は、それは関係なかったといまも確信している〉

(以上「週刊新潮」1982年8月19日号掲載記事より)

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松本清張氏の有名作品に

 先の記事で加藤氏が言及した「小説」とは、松本清張氏が1959年11月から連載形式で発表し、後にドラマの原作にもなった『黒い福音』(新潮文庫)のことである。この事件に多大な関心を抱いていた松本氏は、その作品の前にも「『スチュワーデス殺し』論」と題したノンフィクションを発表していた。

 ベルメルシュ神父が羽田から離日する際、そこに居合わせた入国審査官の激白は【27歳女性変死「疑惑のベルギー人神父」が現れた羽田空港“緊迫の15分間” 通報した出国審査官に警察が放ったまさかの言葉】で報じている。神父はそのままベルギーに帰国すると、再びカナダの教会に赴任。2017年3月17日に96歳で死去し、カナダの地に葬られた。

 Tさんの死亡を告げても、ベルメルシュ神父は驚かなかった――。第1回【「ほ、死んだですか。よい信者でした」 27歳女性変死「疑惑のベルギー人神父」が見せた“不可解な言動”【昭和の未解決事件】】では、遺体発見から神父と警察が初めて顔を合わせるまでを伝えている。

デイリー新潮編集部