“泣ける”道具として消費される死と“感動映画”の変遷 現在の日本映画が考えるべき問題点
石井裕也監督の『人はなぜラブレターを書くのか』は、2000年3月8日に起きた営団地下鉄日比谷線脱線事故を題材にした物語だ。とはいえ、それにまつわる実話という点を打ち出しており、事故の描写は極めて限定的であったように思える。おそらくそれは、ストーリーを構築する上で最優先された「関係者への配慮」の結果なのだろう。
参考:石井裕也が“余命もの”のフォーマットを解体 『人はなぜラブレターを書くのか』の挑戦
●実話とフィクションの“いびつな縫合”
映画を基本的な三幕構成で捉えれば、第一幕は寺田ナズナ(綾瀬はるか)が日常のなかで24年前の高校時代を回想し、当時密かに想いを寄せていた青年に渡せなかったラブレターを彼の遺族に送るかどうか悩む姿が描かれる。第二幕でその青年――富久信介(細田佳央太)にまつわる物語が実話ベースで展開し、第三幕ではナズナと彼女の家族のその後が描かれていく。
いわば、鉄道事故によって亡くなった青年の人となりや、その想いを受け継いだ者たちのドラマという『横道世之介』的なものは第二幕に集約されている。フィクションである第一幕と第三幕をもって、ノンフィクションの第二幕を包み込むかたちだ。
こうした構成自体は、実話ベースの作品ではよくあることだ。しかしながら、それらのバランスの取り方に妙な居心地の悪さを感じることになる。いかんせん、第二幕で描かれる川嶋勝重(菅田将暉)の一連のエピソードが“事実は小説よりも奇なり”といわんばかりの強固なドラマ性を備えているだけに、ぎこちない家族の関係から偶然のイタズラで手紙が送られてしまうフィクションの部分がいささか陳腐に映るのだ。
そしてなにより第三幕である。第一幕と第二幕が重なり合わない軸足の不安定さのなかで、蛇足的に“その後”を描き、感動を引き出そうとするあまりさらに軸がぶれ、物語の落としどころとテーマがぼやけてしまっている。「二兎を追うものは一兎をも得ず」というやつである。
具体的な記述は避けるが、ある一定の世代には「Mr.Childrenの『HERO』の2番の出だし」とでもいえば通じるやつである。その安易さについては当然褒められたものではないが、作り手側が望んでやっているのであれば自由にすればいい。
けれどもこの映画、この物語の場合、題材の背景に「実際に命を落とした人」がいる。ゆえに、その人物をモデルにしたキャラクターでなくとも、決して人の生き死にというものを杜撰に扱ってはならない責務がある。この点に、昨今ふたたび流行している“感動映画”の重要な課題が浮き彫りになったといわざるを得ないだろう。
●日本映画における「感動映画」の系譜
そもそも“感動映画”というジャンル分けはいささか乱暴かもしれないが、ここでは現代のそれに至るまでの系譜を整理しておこう。
もっと昔から“御涙頂戴”と呼ばれる作品はあったが、2004年の『世界の中心で、愛をさけぶ』をきっかけとするのが妥当なところだ。白血病で死するヒロインを描いた同作を契機に、感動を構成する主要素として“難病”と“純愛(場合によっては初恋)”がパターン化する。もっとも同作の場合、初恋の相手の死を大人になっても引きずったままの主人公の葛藤と、それでも前を向いて生きていこうとする姿を描く点で、一本の筋が通っていた。また、同時期に公開された『いま、会いにゆきます』ではファンタジーと家族愛を加えることで、『世界の中心で、愛をさけぶ』との棲み分けが図られていた。
流行に乗じて同型の作品が量産されがちなのは、日本映画に限った問題ではない。案の定“純愛難病路線”はすぐにマンネリ化してくるのだが、そんな折にケータイ小説を原作とした『恋空』が大ヒットを記録する。学生同士の恋愛模様を描く方向に一気に傾き、その流れを汲むように『僕の初恋をキミに捧ぐ』で少女漫画原作の映画化にシフトすると、この路線は一時的に感動とは対照的な位置にあるラブコメジャンルの“キラキラ映画”へと派生していく。
ところが、その“キラキラ映画”も量産体制に入ってマンネリ化したタイミングで、今度はノベル原作の『君の膵臓をたべたい』が現れる。同作は“初恋”と“難病”を回想のかたちで描く点で、まさしく『世界の中心で、愛をさけぶ』と近しいものがある。しかし、難病で死に至るのではなく「人はいつ死ぬかわからない」という永遠のテーマを観客に提示することで、新たなパターンを与えたといっていいだろう。結果、少女漫画原作はラブコメ路線として残ったまま(なかには『10万分の1』のような作品もあるが)、ノベル原作や、数年前に流行した楽曲を原案にした“インスパイア系”によって“純愛難病路線”は復活する。
●「泣ける」ための道具として消費される“死”
この時点から、従来以上に「人が死んだら悲しい」という極めて安直な感情を、さも特別視する作品が目立つようになる。その理由はいくら考えても「わかりやすいから」しかないのだが、こうした陳腐すぎるパターン化を揶揄し、“感動映画”と呼んだ次第だ。
ちなみにこの頃から、医療の進歩によって不治の病のバリエーションが減ったからなのか、『君は月夜に光り輝く』のように架空の難病を扱う作品まで現れる。そこからほどなくして世界はコロナ禍に突入した。誰も知らない未知の存在で身近な人が突然命を落とすという恐怖心、いつなにが起こるかわからない不安感が世界を包み込んだことは、このジャンルの本格的な復活とあながち無関係とは言えないだろう。
ましてやSNSの隆盛によって、これまで以上に口コミが重要視される時代だ。TikTokで誰かが「泣ける!」と言いだして話題になれば、興行的に盛り上がる。ファンタジー要素を介入させて特攻隊青年との恋を描いた『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』や、“インスパイア系”の『366日』がその代表格だ。
とりわけ後者がこともあろうに不治の病のオンパレードを恥ずかしげもなく繰りだして「泣ける」に依存していたように、もはや人の死や難病というものは物語のための動力ではなく、鑑賞者の「泣ける」ための道具として消費されることになっている。
おおよそこうした“感動映画”に共通しているのは、生き残った登場人物たちが誰かの死をきっかけに前向きに生きることを決意する“良い話”に落とし込まれている点だ。誰かが死んで初めて命の尊さや日常の愛おしさを理解するなんて、身勝手もいいところである。
そうした作品の興行的成功で映画界が潤うのであれば悪い話ではないが、短絡的なマーケティングに迎合するように、映画本編まで短絡的になる必要はない。ましてや今後、『人はなぜラブレターを書くのか』のように実話や実在の人物の死を基にした感動映画が増えてくるとなれば、なおさら人の生き死にについて思慮を欠いてはならない。“感動”を求めること自体は間違いではないが、今こそ、基本的な物語の作りかたというものを見直すべき局面ではないだろうか。(文=久保田和馬)
