待遇は悪くなかったのに、暴動を起こして死体の山を築いた「日本人捕虜」たちの目的
太平洋戦争で軍人として最前線で戦ったのは、明治後期から大正、昭和初期までに生まれた人たちだった。戦後81年。当事者のほとんどが鬼籍に入り、「忘れてはならない」の掛け声とはうらはらに、確実に戦争の記憶は遠ざかってゆく。そして終戦後、当事者たちがどのように生きたかということは戦争中の出来事以上に知られていない。だが、戦後、焼け跡からの復興を担ったのもこの世代だ。ここでは、私が30年以上にわたり、直接インタビューした元海軍軍人の「戦後」をシリーズで振り返る。
今回は、オーストラリア軍の捕虜となりカウラ収容所での暴動に参加、戦後は証券会社に身を投じ、「北浜の古武士」と呼ばれた高原希國氏を紹介する。
【前編を読む】<太平洋戦争の「捕虜第2号」から「証券マン」に…半死半生で漂流し、人跡未踏のジャングルをさまよった元海軍軍人の数奇な運命>
前線から次々と送られてきた日本人捕虜
戦況の悪化にともない、「日本軍に捕虜はない」との建前にかかわらず、前線からは続々と日本人捕虜が送られてきた。ヘイの収容所は手狭となり、高原たちは、ヘイから数100キロ離れたオーストラリア東南部のニュー・サウス・ウェールズ州、シドニーの西方約300キロに位置するカウラ第十二捕虜収容所(キャンプ)に移送された。
ここはもともと、ヨーロッパ戦線のドイツ、イタリア人捕虜を収容するために造られた施設で、直径680メートルの大きな12角形の敷地をA、B、C、Dの4つのエリアに区切り、昭和18(1943)年末頃には、Aはイタリア人、Bは日本人、Cはドイツ人、Dは日本人将校と台湾人、朝鮮人の捕虜が、それぞれ収容されていた。そこには、水道設備も食堂、炊事場などの設備も整っていて、便所も戸外ながら水洗式、水と湯の出るシャワーもあった。キャンプの外には病院もあり、通院することもできた。
「ドイツ人は服装、規律がキチっとしていて、毎日、朝は起床ラッパで起き、行軍などの訓練をやってる。夜も消灯ラッパで寝る。いっぽうイタリア人は、捕虜になった屈辱など微塵も感じていないようで、みんな陽気で、毎日ギターやマンドリンを弾いて歌を歌ってる。あれは戦争に弱いはずやと思いました。農園への労働にも喜んで出て、農家の奥さんや娘さんと恋仲になったりね。
しかし日本人は、自分のことは一生懸命やるけど、労働に出るのを拒否したり、出てもだらしない格好をして、わざと作物を枯らしたり、アホなことばかりやりよる。『ドイツ兵は銃を持って生まれてきた。イタリア人はマンドリンを抱えて生まれてきた。日本人はわけがわからん』と、豪州軍の将校に言われていました」
塀の中で生まれた「捕虜文化」
捕虜の人数が増えるにしたがい、そこには「捕虜文化」とでも呼ぶべき独自の、不思議な文化が育っていった。捕虜のなかにはさまざまな前職の者がいるので、たいていのものは、ありあわせの材料で、自分たちで作ってしまう。
手製の花札や、木片と羊の骨を使った麻雀牌、碁石、将棋の駒。支給された煙草を金銭代わりに、勝負に熱中して鬱憤を晴らす。手製の硬球やバット、グローブで野球もする。グラウンドに白線を引くのに石灰ではなくメリケン粉を使うほど、物資は豊富である。演芸会で使う楽器も手製で、隣のイタリア兵捕虜キャンプから借りてきたマンドリンやバイオリンをもとに、図面を起こして作ったものである。弦には蠅除けのネットをばらして使い、弓には、食糧運搬に使われる馬の尻尾の毛を失敬する。宿舎の周囲にはきれいな花を咲かせ、畑を耕して野菜を育てる。酒は禁じられていたが、米や医薬品のアルコールをもとに密造する。
一見、何不自由のない生活。しかしそこでは、互いに過去と出身を尋ね合わない不文律が守られていた。
一緒に暮らす日本人どうしでありながら、互いの正体についてはなにも知らない。捕虜の多くは偽名で、「近藤勇」(新選組)や「長谷川一夫」(人気俳優)を名乗る者もいた。
「厚遇を与えられれば与えられるほど、より精神的な呵責に苛まれる。また同時に、生きるということが貴重で有意義にも思えてきます。死を望みながらも、現実の日々の苦悩を克服することができない。ごく率直に言えば、命が惜しくなってくる。捕虜になった私たちは、おそらく日本に帰れることはあるまい。そのくせ、内地の家族や友人のことが気になって眠れないことがある。豪州軍に処刑されないのなら、いつかは自らの手で自分たちの始末をつけなければと考えながら、それも実行に移せないままに、人数が増えるにしたがい、海軍と陸軍の主導権争いが起こるようにもなってきました」
はじめ、キャンプの捕虜の団長、副団長はともに海軍の出身者だったが、圧倒的に数の多い陸軍側の不満がつのり、団長の南兵曹は選挙の実施に同意せざるを得なくなった。選挙の結果、陸軍の下士官が団長、副団長に就任したが、実権は依然として南兵曹ら、英語が話せて豪州軍との交渉ができる者の手に握られていた。数によって無理やり主導権を握る立場についた陸軍の一部勢力は、ことさらに戦陣訓や軍人精神を持ち出しては、自分たちの権威を示そうとした。
目的は「軍人らしく、戦って死ぬ」
戦況は、毎日、事務室に配られる新聞を通して知ることができる。サイパン島も敵手に落ち、収容所内の一部の捕虜の間では、このさい、潔く死を選ぶべきだというムードがだんだん高まってきた。そんな折、昭和19(1944)年8月4日午後、豪州軍より、日本人捕虜の分離、移動が伝えられたのだ。
カウラ捕虜収容所Bキャンプ(下士官兵キャンプ)の捕虜は、その時点で約1100名、21班に分かれる大所帯となっていた。豪州軍から示された移送者名簿が、下士官と兵を事実上分離させるものであったことと、語学力不足によるコミュニケーションのまずさから、下士官と兵を不可分のものと考える捕虜の一部強硬派が激高、班長会議で、2、3人の班長が、この機に一斉蜂起することを主張した。多くの者は慎重論の立場で、高原も、
「我々は、運命のいたずらでこんなに多くの人と暮らすようになっただけ。集合、離散はやむを得ない」
という考えだったが、
「強硬論を唱える人間に、『それでも君は日本人? 戦陣訓を知らんのか?』と問いただされると、戦陣訓は知らなくても『日本人か?』には弱い。捕虜になったとはいえ、自分も日本人だ、よし、負けてたまるか、という気になったんです」
班長会議は紛糾して収拾がつかなくなったので、全員の投票で意思を問うことになった。結果は、8割の者が蜂起に賛成票を投じた。賛成でなかった高原も、トイレットペーパーの投票用紙に賛成の〇をつけた。
「だからそのへん、投票というのがいかにええ加減なものか。周りに煽られたり、声の大きい方、耳あたりのええ方に踊らされたりして、極端な方向に流されやすいかということですね。いまも民主主義とは言っても、選挙には同じ危うさがつきまとうんやないでしょうか」
待遇に不満があったわけではない。脱走しても、広いオーストラリア大陸から逃げられるわけでもない。目的はただ一つ、「軍人らしく、戦って死ぬ」ことにあった。
そして8月5日午前2時、捕虜たちは一斉に蜂起する。
冴え冴えと晴れた満月の夜空に、ときならぬ突撃ラッパが鳴り響いた。カウラ・第12捕虜収容所Bキャンプ。南半球では真冬となる、昭和19(1944)年8月5日未明のことである。
赤い囚人服を着た約1100名の日本人捕虜たちは、施設に一斉に火を放ち、手には思い思いに野球のバットや食事用のナイフを持って、雄叫びを上げながら、三重にめぐらされた鉄条網を、赤い川の流れのように乗り越えていった。
オーストラリア軍の機関銃が火を噴き、赤や黄色の曳光弾が横殴りに激しく飛び交う。捕虜たちはバタバタと斃れ、屍の山を築いてゆく。
野球バット一本と毛布2枚で正面突破
「私の班は、正面ゲートを突破するグループでした。武器はなにひとつない。私は、野球のバット一本と毛布2枚を持って、突撃ラッパの合図とともに飛び出しました。鉄条網に毛布を掛けて乗り越えると、そこには豪州軍の機関銃、自動小銃の猛烈な射撃が待っていました」
前団長の南兵曹(豊島一飛)は、操縦練習生になる前は信号兵だったので、軍隊ラッパの心得があった。彼は、突撃ラッパを吹き鳴らしたあと、銃弾を胸に受けて倒れ、自らナイフで喉をかき切って絶命したと伝えられる。
高原たちの次に豪州軍に捕えられた捕虜番号7番の台南海軍航空隊の零戦搭乗員・柿本円次二飛曹も、首を吊って自決した。柿本二飛曹は、『大空のサムライ』などの著書で高名な零戦搭乗員・坂井三郎一飛曹の二番機を務めた搭乗員である。
高原は、飛行艇の戦友・古川欣一二飛曹(偽名・山川清)が、脚を撃たれて目の前に倒れているのを見て、その最期を見届けようと伏せている間に銃撃が終わり、九死に一生を得た。周囲には30名近くが伏せているように見えたが、高原と古川二飛曹以外は全員が死んでいた。
死体の山の中で「死んだふり」
「私の尻のところで、神戸出身の土岐さんという陸軍の兵隊が心臓を射抜かれて、1発で即死しました。サーチライトで照らされて、動くと撃たれるから、死体の山の中で死んだふり。そら、怖かったですよ。霜が降りる真冬の寒さに震えながら小便も垂れ流しで、そのまま朝を迎えました」
この暴動で、日本人捕虜231名と豪州兵4名が死に、数百名が負傷した。カウラの施設が焼け落ちたので、生き残った捕虜たちはヘイの収容所に移された。これだけの事件のあとにも、豪州軍の捕虜に対する扱いは変わらなかったという。ただ、食事時にナイフとフォークが支給されなくなったのが小さな変化と言えた。
やがて終戦。高原は、昭和21年4月3日、復員船で浦賀に上陸、二度と帰れるはずのなかった故国の土を踏んだ。捕虜となって4年あまり、軍人であった期間よりも長い捕虜生活だった。戦死公報が出ていたので、自分の葬儀も4年前に済み、戒名までもらっていた。空襲で焦土と化した故郷を歩くうち、「高原の幽霊が神戸を徘徊している」という噂が立ったりもした。
役所で戸籍を回復し、戦死後の一等飛行兵曹から飛行兵曹長への進級も取り消されて、偽名の船員・高田一郎から本名に戻った高原は、もう一度生き直そうと、神戸市立外事専門学校(現・神戸市外国語大学)で中国語を学ぶ。しかし、戦後の不況で就職口などなく、捕虜になった当初にヘイの収容所で一緒になった在留邦人の元銀行支店長を頼って、証券業界に身を投じた。
そして20余年、死にもの狂いで働いて、昭和50(1975)年には株式会社黒川証券専務になる。客から信頼され、「北浜の古武士」と呼ばれていたのは前に述べたとおりだ。「最後の相場師」、是川銀蔵も、そんな高原に信頼を寄せた一人である。
戦後は日豪の親善に努めた
「是川はんはケチンボで、酒は飲まんし女遊びもせん。贅沢とはいっさい縁のない人やった。昼はざる蕎麦と決まっていて、それ以外はずっと相場の動向を見てる。それで、狙いをつけたら仕手戦を仕掛ける。あのカンは天才的やった。ただ、目的は金を儲けることだけで、それを自分のために使うという発想がなかったんやと思います。大阪市に多額の寄付をしたり、交通遺児の奨学金を設立したり、そういうところには稼いだ金をポンと出す。私は、是川はんの軍師みたいに言われていましたが、じっさいにはストップばかりかけていました」
高原はまた、豪州カウラ会会長として昭和59(1984)年、カウラ暴動40周年にオーストラリア再訪を果たし、以来、平成21(2009)年7月、89歳で亡くなるまで、現地に幾度も足を運び、日本庭園や桜並木をつくる活動に協力するなど、日豪の親善と戦友たちの慰霊に力を尽くした。カウラの捕虜収容所は、いまはその面影を全くとどめず、ただ、231柱の偽名戦士の墓標が立っている。
「これまでの人生、非常に辛かったけどね、甘んじて辛いことに耐えてきた。辛いことが嫌ではなかったし、それが私の取り柄やと思っています。しかし、いろんな大変な目に遭うても、それが人生において一つも無駄になってない。『人間万事塞翁が馬や』」
数々の壮絶な体験を肚に沈めた上で、それでも「面白い人生やったで」と、「古武士」は笑った。
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