「調理場にいたら関東大震災」「ベーブ・ルース夫人はお綺麗だった」…歴史の舞台「帝国ホテル」従業員たちが語る“あの日あの時の日本”
【写真】威容を誇った帝国ホテル「ライト館」 関東大震災にも耐えたかつての姿
老舗ならではの“逸話”を堪能
現在も盛んに報じられている日本のホテル開業ラッシュ。2026年も帝国ホテル 京都やカペラ京都、星のや奈良監獄(6月予定)、コンラッド名古屋(夏予定)など、新たなラグジュアリーホテルが注目されている。
だが、真に日本を代表するホテルといえば、やはり老舗を挙げる向きは多い。東京「御三家」の1つである帝国ホテルはその筆頭といえるだろう。井上馨(1836年〜1915年)の発案で1890(明治23)年11月に開業したこのホテルは、時に歴史の舞台にもなった。
充実した設備やホスピタリティなど、ホテルの魅力を示す要素は数多い。だが、一朝一夕で得られないものとは“逸話”である。そこで今回は、関東大震災や二・二六事件、進駐軍時代の帝国ホテルを、当時を知る従業員たちの貴重な証言で振り返ってみよう。

(全2回の第1回:以下「週刊新潮」1985年3月14日号「ザ・帝国ホテル」を再編集しました。文中の役職や年齢等は掲載当時の41年前のものです)
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創設当初の筆頭株主は宮内省
夜ごと催される舞踏会などで明治の欧化政策の象徴だった鹿鳴館は1883(明治16)年に建てられたが、帝国ホテルもまた、その欧化政策でのちに失脚した外務大臣、井上馨の発案になるものだった。
渋沢栄一、大倉喜八郎、浅野総一郎らが資本金26万5000円の帝国ホテル会社を創設したのは1887(明治20)年だった。その浅野は追憶談の中で、
「憲法発布頃外務省より首都にホテル一つ持たぬは国辱なりとして東京の富豪十四、五名を呼び出し、ホテル創立の相談があり、集まるもの近藤、岩崎など世に時めく御歴々なりしも一人一万円の醵金が如何にも大金であった。それがため醵金も思ふ様に捗らず到頭五万円を宮内省の持株に願ってけりがつき、出来上がったのが帝国ホテルである」
と語っている。宮内省が筆頭株主というこの体勢はその後、1936(昭和11)年まで継続されたが、だからこそ帝国ホテルは、その厳めしい名称と相まって、日本のホテルの中で一種特別な地位を占めてきたのである。
1890(明治23)年11月3日、東京麹町区内山下町と呼ばれた現在地で開業したその新ホテルは、宿泊料金が最下等で50銭、2食付で2円50銭〜9円という値段で営業を始めた。新案の鴨料理などの西洋料理も評判をよび、井上馨や伊藤博文らも3日にあげず食べに通っていたといわれる。
ホテルはその後、増築を重ねて客室数を60余室にまで増やした。しかし、明治末ごろから増加し始めた外国人観光客を受け容れるには規模が十分ではなくなり、そのために新たに建てられたのが、米国の建築家フランク・ロイド・ライトの設計による本館、俗にいうライト館だった。
日本の浮き沈みを見たライト館
1923(大正12)年に完成し、1967(昭和42)年に取り壊されるまでの44年間、帝都に威容を誇っていたこのライト館こそが、帝国ホテルの荘重厳粛なイメージを広く定着させるのにあずかった。
しかし、このライト館時代はまた、受難の時代でもあった。戦時中は外務、大東亜両省に借り上げられ、戦争が終わるとすぐに進駐軍に接収されて、GHQの高級将官の宿舎に充てられた。それが解除されて株式会社帝国ホテルの手にやっと経営権が戻ってきたのは1952(昭和27)年である。
その間に経営陣は、初代の渋沢栄一会長から大倉喜八郎、大倉喜七郎と、戦前は大倉財閥の二代が社長を継ぎ、戦後の財閥解体で大倉喜七郎が公職追放されると、そのあとを襲ったのが犬丸徹三だった。
石川県の中農の家庭に生まれた犬丸は、東京高商、現一橋大学を出たが就職に恵まれず、満州、上海から欧米に渡ってホテル修業をして、1919(大正8)年に帝国ホテルに迎えられ、終戦当時は総支配人の地位にあった。
そういう意味では、帝国ホテルが初めて迎えた叩き上げの社長だったが、社長になってからの犬丸は、戦後の国際化時代に即応して第一新館、第二新館と次々に施設を拡大した。ついには1970(昭和45)年の大阪万博に間に合わせるべく、世論の反発に抗して由緒あるライト館を取り壊し、新本館を完成させたのだった。
ライト館落成、祝宴の日に関東大震災
今でもその遺影を懐かしむ声が多いライト館については、いろいろ因縁めいた話が残っている。予算超過と工期の遅れで一身に非難を浴びたライトは1921(大正10)年に帰米してしまったが、建物は何とか2年後に完成に漕ぎつけ、落成の披露宴を催すことになった。
「朝野の名士およそ五百名を昼食に招待して、盛大な祝宴を張り、続いて演芸場で余興を公開するという順序とし、私はこの日、早朝から、その準備に忙殺されていた」
と犬丸徹三は著書の『ホテルと共に七十年』(展望社)で書いている。当日は犬丸が副支配人から支配人へ昇格した日でもあったから、ことのほか晴れがましい気分でいたのである。
「正午少し前、準備まったく完了して、いまは来賓の到着を待つばかりとなった。私は紋付きの羽織袴に白足袋という礼装に威儀を正した後、念のため、それぞれの係の責任者を支配人室に集めて、各部門とも万遺漏のないことを確かめ、なお二、三の指示をおこなった。これが終ると、各員は支配人室を去って、それぞれ館内所定の部署に就き、室内には私のほか庶務係二人のみが残った。突如、かの大地震が襲来したのは、まさにその時である」
大正12年9月1日、あの関東大震災の日だったのだ。
ライト館は強い揺れにビクともせず
かつてライト館1階のバーでシェーカーを振っていた池之平勇吉(77)も、この大地震を経験した1人である。
「私はその年の6月、鹿児島から出て来て17歳で帝国ホテルのバーに入ったばかりでしてね。卵か何かを調理部に取りに行かされて、ちょうど調理部の真ん中に立っていたとき、来たんです。揺れたと同時に電気が消えて真っ暗になりました」
犬丸の本によると、油の入った大鍋の載っている電気炉を消すために、変電室に走ってメインスイッチを切らせたのは犬丸自身だったということである。
「怖いも何もない、四つん這いになって必死に外に出るだけでした。すぐ前にあった東京電力の木造3階建ての建物が、よう燃えてました。水も出ないし、ただ燃えるのを眺めているだけでしたよ」
幸いにして帝国ホテルは火も出さず、類焼もまぬがれたが、それよりももっと評判になったのは、マグニチュード8の揺れに対して、ライト館がビクともしなかったことだった。耐震には自信があると豪語していたライトの言葉が見事に証明されたわけだ。
しかし、こういう劇的な船出を飾った建物だったにもかかわらず、ライト館はどこか陰気で不吉なイメージが付きまとっているという見方をする人も多かった。それはライトの暗い過去を反映しているからだと指摘する人もいる。
1914年、ライト自身が設計した山荘で、前夫人と2人の子ども、弟子達の計7人が惨殺された事件である。不在のため生き残ったライトが帝国ホテルの仕事を引き受けたのは、この事件から2年後のことだった。
従業員たちが見たホテルの裏側
とはいえ、古き良き時代も激動の時代も、みんな眺めて来たのはこのライト館だった。
「私は帝国ホテルが最初に女子社員を募集したとき、500人くらいの中から採用された15人の1人でした」
というのは、1934(昭和9年)に入社した竹谷年子(75)である。
「VIPの客室係に配属され、初めにお泊まりいただいたのがベーブ・ルースさんでした。まあ立派なブルドッグみたいな方で、奥さまはメリー・ピックフォードという有名な女優さんで、とてもお綺麗な方でしたねえ」
西澤繁太郎(67)は1935(昭和10)年の入社だが、これも初めての男子社員公募に応じたものだった。およそ1500人の応募者の中から、たった5人しか採用されなかったのだという。
その中の1人で、
「裏方の仕事ではナイフ磨きをよくやらされたけど、当時のナイフは鋼鉄製なので、手動の機械を動かしているうちに手が真っ黒になり、いやな仕事だった」
と愚痴をいいつつも、
「月給は17円だったけど、私はルックスが良かったので、他のボーイよりチップをもらう回数がずっと多かった」
とチップを稼ぎまくり、1年後に新築地劇団に転じて行ったのが田足井重二、後の俳優・多々良純(67)である。
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帝国ホテルには鎮圧部隊の本部が――。第2回【「重光葵」が降伏文書の調印式前によんだ和歌、「M・モンロー」宿泊に大騒ぎ…「帝国ホテル」従業員が語る“あの日あの時の日本”】では、二・二六事件、ミズーリ号に赴く前の重光外相から贈られた和歌などについて貴重な証言を伝える。
デイリー新潮編集部
