小5で大病を患い、音楽に出会った 横浜銀蝿のJohnnyが辿った3度の“リボーン”
1980年に「T.C.R.横浜銀蝿R.S.」としてデビューしたバンド「横浜銀蝿」のギタリスト、Johnny(67)が1986年以来、40年ぶりとなるソロ活動を開始し、アルバム「ヨコハマ・グラフィティ」を発売した。横浜銀蝿で衝撃的なデビューを果たし、後に制作側としてキングレコードに入社。上席執行役員として辣腕を振るい、当時の部下や後輩らにも背中を押される形での“再デビュー”となった。Johnny自身は自らの人生の節目節目において、多大な影響を受ける出来事があったと振り返る。
(全2回の第1回)
***
【写真】今も色あせぬ輝き 当時の「横浜銀蝿」貴重カット ほか
小5で患った大病が洋楽との出会いのきっかけに
1958年生まれ。小学生の頃はサッカーや野球の好きなスポーツ少年で、流行り歌などは耳にしていたものの、音楽に特段の興味はなかったという。ところが、5年生のとき、3カ月の入院を余儀なくされる大病を患った。

「結構背が高くって、大病を患うまでは、もう本当に音楽なんか全然興味のない、スポーツ好きな小学生だったんですけども。その後も中学卒業までの5年間、体育は見学という感じで長く患っていました。5年生で入院した際に、ラジオから洋楽が流れてきたんですよ。それまでピンキーとキラーズの『恋の季節』や皆川おさむの『黒猫のタンゴ』なんかが流行っていたのでよく耳にしていたんですが、初めて聴く洋楽に『きれいな曲だな』と思いましてね。後にFEN(現AFN)の『American Top 40』やラジオ関東(現ラジオ日本)の『全米トップ40』を聴くようになって、キャロル・キングやカーリー・サイモン、それにギルバート・オサリバンなんかの洋楽をすごく素敵だなと思って。病気になったのはつらかったんですが、病気にならなければ音楽との出会いはなかったかもしれません」
座右の銘を「人間万事塞翁が馬」とするJohnnyの最初の“リボーン”が、この小5での大病。入院時に聴いた洋楽との出会いがなければ、横浜銀蝿もなかったかもしれない。「後にならなければよかったかどうかなんて分からないから、その都度、右往左往しない」ことを信条としている。
ラジオから流れるリバプールサウンドに魅了される一方で、「日本の音楽はこれとは程遠い」などとの思いも胸の内に湧いてきていた頃、中学2年で始まった若者向けの情報番組「リブ・ヤング!」(フジテレビ)に出てきたバンドに驚いた。矢沢永吉やジョニー大倉らによる、アマチュア時代の「キャロル」だった。
「日本人でもこんなカッコいいことやってるんだ、と思いましたね」
2度目の“リボーン”は高校入学時 Johnnyを名乗り始める
フォークギターを手にしたのは小6の頃。退院はしたものの、自宅療養の続く息子を見て「親もかわいそうだと思ってくれたのか」(Johnny)、両親がギターをプレゼントしてくれた。友人の姉が弾くギターを見よう見まねで覚え、吉田拓郎の「結婚しようよ」や泉谷しげるの「春夏秋冬」などを弾いていた。ただ、自身がプロになろうなどとはその時点では全く考えていなかった。転機が訪れたのは高校入学時。その後に横浜銀蝿を組むことになる翔との出会いがあった。それだけではない。妻との最初の出会いも高校入学のとき。そして5年間、見学を強いられてきた体育についても担当医から「もう運動をしていいですよ」と解禁された。さらに父が亡くなるという悲しい出来事があったのも、高校に入る頃のことだった。
「こんなことが重なったのだから、本当に高校入学はリボーン、リスタートでしたね。翔くんとはクラスメイトになって互いにロックンロール好きということで気が合いました。Johnnyを名乗り始めたのも高校になってから。本名は浅沼正人ですから、中学までの友人はJohnnyというよりは浅沼なんですが、逆に高校からの友人は『浅沼って誰? ああ、Johnnyのことか』というぐらい、Johnnyの名前が浸透していました(笑)」
テレビ神奈川(tvk)が開局して間もない時期だった。もともとは人気を博していた「ヤング・インパルス」の1コーナーだったアマチュアバンドによるコンテスト番組「ハマヤング」を見て、その番組への出演を目指した。
「この番組に出たくて、翔くんと『バンドを作ろうよ』って話になって。他のクラスメイトを誘ってバンドを作ったのが高1の時。それで高2でこの番組に出たんですよ。最初からオリジナル曲を歌っていました。『これでいいのか高校生』っていうタイトルで、後の『ツッパリHigh School Rock'n Roll』と同じようなことを歌ってましたね。『親に隠れてタバコ吹かし…………これでいいのか高校生』って本当に同じようなことをね(笑)。作り物じゃなくて、自分たちの生活の中で面白かったことや楽しかったことを曲にしていました。ハマヤングでもこの曲を歌ったんですが、今も映像が残っているんです。下手ですよ(笑)」
嵐の加入でプロを目指す道に
テレビにまで出たものの、そのままプロを目指そうなどという思いは毛頭なかったようだ。
「バンドを作ったときからプロになろうというような気持ちはあまりなかったですね。ただただ楽しかったから。売れたいとかっていうよりも、こんなことやったら楽しいよねって。人にどう思われるかも考えずに、やりたいことを楽しんでいたという感じ」
そうした中で高校を卒業し、当時のメンバーもそれぞれ大学に進学。地方に行ったメンバーもいたため、大学時には新しいメンバーで組んでいた。
「大学のメンバーも就職活動などで辞めたりして、ドラムがいなくなったんです。『どうする、翔くん?』って言ったら、翔くんの兄貴がドラムやってるっていうんで、じゃあ入れようよという話になり、それで嵐(ヨシユキ)さんが入って来たんですよ。その後も俺や翔くんは楽しければいいやって感じだったんですが、嵐さんはもう22、23歳になっていたんで、自分の人生を見ていたんですよ、プロ志向で。だからオーディションのテープを送ったりしてプロデビューに向けていろいろ模索していたんで、俺らもそれについていったんですよ。それも面白いからいいな、っていう感覚で」
嵐のさまざまな行動が奏功し、ベースのTAKUを含む4人で横浜銀蝿はデビューを迎えることとなり、プロの道を突き進むことになった。が、それでもJohnnyは「これだけやって来たんだから、青春の記念で1〜2枚レコードを出せればいい」という感覚でいたという。ところが、嵐が広げた“大風呂敷”によって、「楽しい」だけではとても済まされない状況へバンドは突入していくことになる。
「キングレコードで1980年にデビューするミュージシャンの新譜試聴会があって、担当の宣伝マンに紹介されたんです。そこで嵐さんが『俺たちは2年間でオリコンシングル1位、アルバム1位を取って、そして武道館を満タンにします』って宣言したんですよ。俺はそんなことは聞いてなかったんで、単なる横浜のツッパリ、不良がそんなこと無理でしょ、みたいに思ってたんですよ。でも後から思えば、嵐さんについていってよかったな、ということですよね」
もちろん楽しいばかりでは、宣言は成就できない。
「自分では病気とかしていた時期もあったけど、結構器用で、それなりになんでも思う通りできていたんです。努力しないでもね。勉強もある程度できたし、女の子にもモテてたし。でもこの時はこのままじゃ無理だと思ったから、本当に努力しました」
メンバーでたくさん曲を作り、ステージが良くなるように全員で動きを練習し……。もちろんレッスンもたくさん受けた。そうした努力が実り、デビュー翌年に発売したアルバム「ぶっちぎりII」で1位を獲得。同時発売したシングル「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」もヒットした。武道館ライブで満員の観客を前にした演奏も実現した。シングルでは「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」がオリコン最高3位だったが、ミュージック・リサーチ誌のシングルランキングで1982年10月発売の「あせかきベソかきRock'n Roll run」が1位を獲得。そんな横浜銀蝿は3年3カ月の間活動を続け、1983年の大晦日に解散した。
***
横浜銀蝿としての3年3カ月をあっという間に駆け抜けたJohnny。第2回【キングレコードでの“裏方”35年を経て… 横浜銀蝿Johnnyが40年ぶりソロ再デビューを決めたワケ】では、バンドと並行したソロでの活躍後、音楽制作の現場に入り、さらに恩師のディレクターに導かれたバンド再結成などについて語っている。
デイリー新潮編集部
