港浩一社長

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 フジテレビ港浩一社長(72)が中居の女性トラブルで集中砲火を浴びている。局員の関与が取り沙汰される中、会見では「回答を控えます」を連発。スポンサー離れを引き起こした。だが、社長自身の来歴をたどると、問題は起こるべくして起きたようで……。

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 渦中の港社長はフジテレビを体現するような人物である。本人は2022年7月、社長就任後初の会見で、

「フジテレビは明るく楽しく、元気な会社だった。『楽しくなければテレビじゃない』という標語は今も変わらない」

 と語っているのだが、

「時代錯誤で軽薄なノリがテレビだと信じて疑っていないだけです」(フジ関係者)

 港氏は北海道出身。早稲田大学第一文学部を1976年に卒業後、フジに入社した。最初は人事部に配属され、79年には制作部門の子会社に出向したが、80年に制作部門ごとフジ本体に復帰。バラエティー番組「ザ・ラストショー」でディレクターデビューした。

港浩一社長

 転機は83年放送開始の深夜番組「オールナイトフジ」だった。同番組で構成作家を務めた秋元康(66)は、ラジオ番組で当時をこう振り返っている。

港浩一は4th(4番手)くらい。一番下っ端のディレクターだったの。とんねるずという二人組が面白いから(番組に)入れない?と言ったら即決で。そこから“港浩一伝説”が始まるわけよ」

「とんねるずやミス・ユニバースを引き連れて……」

 売れる前のとんねるずのほか、片岡鶴太郎(70)を起用。スタジオの雛壇に女子大生をずらりと並べて、「女子大生ブーム」の火付け役となった。

「番組内のコントでは鶴ちゃんが女子大生に襲いかかるか、彼女たちの前で脱ぐのがパターンでした。また、女子大生にアダルトビデオの紹介原稿を読ませるコーナーも人気を博しました。面白ければなんでも許された時代ならではですね」(放送関係者)

「オールナイト」以来の盟友の冠番組「とんねるずのみなさんのおかげです」を88年に立ち上げ、プロデューサーに就任。後継番組の「とんねるずのみなさんのおかげでした」を含めて、大人気番組に育て上げた。

「当時の港さんはイケイケでね。東京・港区西麻布界隈で、とんねるずやミス・ユニバースを引き連れた港さんを見かけたことがあります。あの頃から河野景子などの女子アナをたびたび接待の場に同席させてもいましたね」(同)

「港会」

 その後、バラエティー制作担当局長を経て、13年に常務取締役に就任するも、

「出世レースで負けて15年に、子会社の共同テレビジョンの社長に飛ばされました。あの時点で、港氏は本体の社長コースから外れたと見られていました」(前出のフジ関係者)

 が、港氏は諦めなかった。

「彼は昔から女子アナを接待の場に同席させていたのですが、共テレの社長になってからは“復権”のために女子アナを定期的に使うようになった。接待の相手は主に芸能事務所を経営するお歴々で、その会合は『港会』として知られるようになりました」(同)

 深夜番組での女子大生よろしく奇麗どころをそろえた「港会」の効果は絶大だった。

「彼を気に入った、芸能界のドンたちがフジの天皇として君臨する日枝久相談役(87)に再起用を進言したといわれています」(同)

「番組を存続させたのはどう考えてもおかしい」

 かくして日枝氏の指名を受け、港氏は低迷するフジの立て直しのために社長に就任したわけだが、

「彼の肝いりで始まったのが『まつもtoなかい』でした。23年4月の放送開始ですが、2カ月後に例の女性トラブルが起きた。港氏は1月17日の会見で事案発生の直後から内容を把握していたと明かす一方、公にしなかったのは女性のプライバシー保護を優先したからだと釈明しましたが、改編期後も番組を存続させたのはどう考えてもおかしい。企業の広告出稿がなくなるのも当然です」(前出のフジ関係者)

 軽佻浮薄な社長の身から出たさびが社全体をむしばんだか。

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「週刊新潮」2025年1月30日号 掲載