2000年代初頭までは静岡の2つの清水磐田がJ屈指の強豪として認知【写真:Getty Images】

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【J番記者コラム】静岡のサッカーを追う地元ライターが見た王国の今

「日本のサッカー王国は?」と問えば、以前なら迷わず「静岡」と答える人が多かった。

 だが、今はどうだろうか。

 1990年代中頃までは高校サッカーで静岡県勢が圧倒的な力を示し、2000年代初頭までは静岡の2つのプロクラブ、清水エスパルスとジュビロ磐田がJ屈指の強豪として認知され、タイトルも獲得していた。

 それが高校サッカーの全国大会では初戦で敗退することも珍しくなくなり、2010年代に入って磐田と清水が揃ってJ2降格を経験。今季は残り10節となった時点で、清水15位、磐田17位と両者同時降格の可能性さえある。

 そうした事実を並べれば“凋落”と言われても仕方ない。ただ、静岡サッカーは本当に風前の灯火なのか。県内で生まれ育ち、現在も地元に戻ってさまざまな年代のチームを取材している物書きの視点から考察していきたい。

 まず、静岡のチームが勝てなくなってきた最大の理由は、静岡が衰えたことより、他県のレベルが上がったことのほうが大きいだろう。

 昔は静岡が国内では飛び抜けてサッカーが盛んで、競技人口も多かった。そのルーツは、筆者の母校である藤枝東高校が1924年の開校時からサッカーを校技と定め、強化を図ってきたことにある。そこから同校が全国制覇を10度成し遂げ、日本中に“サッカーの街・藤枝”を印象づけた。

 余談だが、藤枝東高では男子生徒は全員サッカーシューズを用意しなければならず、持っていない生徒は入学時に共同購入する。筆者はそこに全く疑問を持っていなかったが、大学で他県の友人にその話をしたらビックリされ、逆に母校の特殊性に気づかされた記憶がある。

 そして次の時代では、清水勢が藤枝に負けじと底辺拡大と強化に熱意を注ぎ、勢力を逆転して輝かしい結果を残していった。当時、例えば清水東高の三羽ガラス(長谷川健太、大榎克己、堀池巧)や、東海大一高(現・東海大翔洋)の澤登正朗、アデミール・サントス(日本へ帰化後に三渡洲アデミールへ改名)、清水商業高(現・清水桜が丘)の山田隆裕、川口能活といった強豪高の有名選手は、地元のサッカー少年や女子生徒にとってアイドルのような存在だった。

 だからこそ他県にないほどサッカー熱が盛り上がり、子供たち(女子も含めて)はサッカーをやるのが当たり前という環境で育っていった。県中部の規模の小さい小学校や中学校では、サッカー部はあるけど野球部はないということが普通だった。

「負けた記憶がない」“勝者のメンタリティー”を持ったかつての選手たち

 それが1993年のJリーグ発足や、1998年のフランス・ワールドカップ(W杯)初出場、2002年の日韓W杯開催などの影響で、日本中でサッカー熱に火がつき、男の子の将来なりたい職業の1位がプロサッカー選手になるなどして、全国的に底辺が一気に拡大していった。それによる日本サッカー全体のレベルアップは、現在の日本代表にも成果として明確に表われている。

 そうなると当然、全国的なレベルが均衡し、静岡が飛び抜けた存在でなくなってくるのは仕方ない。確率論でいえば大都市など人口の多い地域のほうが、能力の高い選手が出現する可能性は高くなる。静岡県民としては少し寂しさを感じつつも、日本のサッカーが強くなるのは喜ばしいことだ。

 また高校サッカーでいうと、全国的に力が拮抗してくれば、県内に強豪高が多いというのは逆に不利な要素となる。1強と言われるような飛び抜けた高校がある県であれば、そこに有力選手が集中するが、静岡では分散してしまうからだ。さらに清水と磐田のユースがあるため、将来のプロ候補たちはそちらを選択することが多い。2019年度の高校選手権で優勝した静岡学園は、県外出身選手のほうが多いというのが現状だ。

 Jリーグの清水と磐田の低迷に関しては、クラブそれぞれの問題もあるだろう。例えば鹿島アントラーズは、周辺地域の人口がそれほど多いわけではないし、特別にサッカーが盛んな地域でもないが、Jリーグ創設時からコンスタントにタイトルを取り続けてきた。その鹿島に見られるクラブとしての一貫したコンセプトや哲学を、静岡の2クラブが持ち続けてきたかと問われれば、首を横に振らざるを得ない。

 清水と磐田が強かった時期は、静岡県が抜群に強かった時代に育った選手たちが中心となってチームを支えていた。その中には清水FC(旧清水市の小中学校の選抜チーム)出身者も多かったが、彼らに幼き頃の時代のことを聞くと「小学校の頃は試合に負けた記憶がない」とか「負けたのは1回だけ。だから優勝した試合よりも負けた試合のほうがよく覚えている」といった言葉をよく聞いた。

 子供の頃から勝つのが当たり前という環境で育ったので、心の根底に揺るぎない自信が醸成される。たまに負けると本当に悔しいので、自然と強い負けん気も育つ。もちろん技術や戦術眼の面も、高いレベルの中で切磋琢磨されていく。そして高校でも結果を出し続けてきたなかで、勝ち方を知っている選手、勝負に強くこだわれる選手――すなわち“勝者のメンタリティー”を持った選手が数多く育っていった。

 そんな選手ばかりなのだから、プロになっても強くて当たり前だった。だが、恵まれた財産にあぐらをかいていたとしたら、その世代がいなくなった時に弱体化していくのは当然のことだろう。現在の状況で育った静岡の選手たちに、いきなり「勝者のメンタリティーを身に付けろ」と言っても無理がある。となれば、また違ったアプローチの強化方法を考えていかなければならないだろう。

“リアル半沢直樹”清水社長も語るサッカー王国ならではの「大きな可能性」

 ここまではどうしてもネガティブな話が多くなってしまったが、筆者としては静岡サッカーの未来に絶望しているわけではない。なぜなら“地盤”という意味ではサッカー王国の強みはまだ残っているからだ。

 例えば、初めて静岡に来たJリーガーに話を聞くと、サッカー王国の片鱗に触れて驚いたというエピソードがよく出てくる。2017年から3シーズン清水に所属し、現在はJ2の横浜FCでプレーするGK六反勇治からは「近所の公園に遊びに行ったら、子供と遊んでいた普通のお母さんのサッカーがうますぎてビックリした」という話を聞いたことがある。

 また日常的に取材に訪れるメディアの多さや、テレビやラジオでサッカーのことが話題になる頻度の多さに驚く選手も多い。大都市圏でタクシーに乗ってもサッカー選手と気づかれることはほとんどないが、静岡だと気づかれることが多く、サッカーの話を熱心にする運転手も多いという。

 筆者は地元の父親サッカーのチームに入って草リーグに参加していたことがあるが、そのレベルもやけに高い。対戦相手の中に、高校時代は全国大会で活躍した経験がある選手が普通にいたりして「それ反則でしょ」とボヤきながらプレーしていた。

 地域全体でのサッカーの浸透度、関心度、定着度といった面では、まだまだ大きなアドバンテージがあると感じている。もちろん「サッカー王国を復活させたい」という強い熱意を持つ指導者は今も非常に多い。

 プロ野球の千葉ロッテマリーンズを見事に立て直した実績を持ち、“リアル半沢直樹”とも呼ばれる清水の山室晋也社長は、そうした地盤の強さに「大きな可能性を感じている」と常々語っている。

 そんななかで今最も必要なのは、静岡のサッカー熱に再び火をつける強いチームの出現だろう。前述の山室社長は「(エスパルスを)Jリーグを代表するクラブにしたい」と言うが、もし清水や磐田、あるいは今はJ3の藤枝MYFCやアスルクラロ沼津がそうした存在になれば、静岡県民もプライドを取り戻し、くすぶっていた炎が一気に燃え上がり、底辺の拡大や強化も大いに加速されるだろう。

 問題は、そんなチームが本当に出てくるのか、どれだけ時間がかかるのかというところだが、その意味でも王国の底力が発揮されることを信じたい。(前島芳雄 / Yoshio Maeshima)