スーパーエース・西田有志 
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 現在のバレーボール男子代表で、大きな期待と注目を集めている20歳の西田有志。そのバレー人生を辿る連載の第3回は、海星高校時代に全国を目指す中で、西田が「一番の挫折」と口にした瞬間を振り返る。

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高校2年時に練習を掛け持ちしていたクラブチームで、全国大会優勝を果たした西田 (写真提供/ヴィアテイン三重)

 2015年4月、西田は中学時代に練習に参加していた海星高校(三重県・四日市市)に入学した。バレー部ではすぐに試合に出て、さっそく4月に行なわれた三重県高等学校春季バレーボール大会の準優勝に貢献した。

 当時の海星高校の監督は、中学時代にクラブチーム「NFO オーシャンスター」で西田を指導した大西正展。大西は自らが勧誘した西田について、「将来、上のレベルでプレーするには、セッターかリベロだろう」と考えていた。高校入学時の西田の身長は180cm。まだ身長が伸びる可能性もあったが、バレーボール選手としては決して高くない。大西は今のようにVリーグ、国際大会に通用するアタッカーに成長するとは思っていなかったという。

 将来的なポジションの変更を大西が考えたのは、西田のサーブレシーブのうまさを知っていたこともある。左利きの西田は右からのほうが打ちやすいこともあり、ポジションはセッター対角の「オポジット」だった。いわゆる”攻撃専門”のポジションだが、大西は西田をサーブレシーブに入らせ、守備の要にもしたのだ。

「点を一番取るので、相手チームは西田を潰そうとサーブで狙ってくるんですが、内心『しめしめ』と思っていました。西田はきれいにレシーブを返しますから。近年のオポジットとしての活躍ぶりを見ると、サーブレシーブをさせたのはストレスになっていたのかな? 高校の時にもサーブレシーブを免除してやればよかったかな? とも思いますけどね」

 チームは県内の大会でも好成績を残していった。ただ、2016年2月の三重県高等学校新人バレーボール大会、2年生に上がったばかりの4月の春季大会、5月の三重県高等学校総合体育大会(インターハイ県予選)と、いずれも準優勝に終わる。全国大会の常連で、三重県の強豪・松阪工業高校が立ちはだかったためだった。

 王者打倒を果たすため、西田は練習環境を変えていた。高校2年時の4月に、地域のクラブチーム「ヴィアテイン三重」のバレーボール部にU−19とU−14が設立され、西田は海星高校での部活とU−19チームの練習を掛け持ちすることにした。ヴィアテイン三重のGMは、大西とともにNFO オーシャンスターで中学時代の西田を指導した中尾聡である。

 U−19チームは天理大学バレー部との合同練習を行なうこともあったが、西田は大学生にも引けを取らないパフォーマンスを見せていたという。6月には三重県ヤングバレーボール選手権大会U−19男子の部を制し、9月の全国大会でも優勝。その大会で優秀選手として「日本ヤングクラブバレーボール連盟賞」を受賞した。試合後には「バレーボールは一人では点を取れないのですが、点が取れた時にみんなで喜びを分かち合えるのが最大の魅力だと思います」とコメントしている(『ヴィアテイン』第20号より抜粋)。

 10月に岩手で開催された国体の三重県代表メンバーも、ほとんどがヴィアテイン三重の選手だった(結果はベスト16)。結果を残していたU−19チームだったが、部活動がある中で人数集めに難儀したこともあり、この国体終了後に解散となった。

 西田は、同時に日本代表のユース合宿でも腕を磨いていた。

 ユース入りのきっかけは高校2年時の春、海星高校バレー部が行なった練習試合にあった。相手は、石川祐希らを輩出した星城高校と、元日本代表キャプテンの荻野正二や清水邦広を輩出した福井工大福井高校。その試合で西田の活躍に目をつけたのが、福井工大福井の西田靖宏監督だった。

 西田監督は、西田本人には「いい名前だね(笑)」と同じ名字であることを話しただけだったが、星城高校の竹内裕幸監督に対しては「あれは逸材ですね」と驚きを隠さなかった。竹内監督はユースのコーチも兼任しており、当初は西田をユースメンバーに入れる構想はなかったが、西田監督が「彼はもっと上のレベルでプレーさせるべき」と強く推薦。それもあってか、竹内監督はユースの本多洋監督(崇徳高校バレー部監督)などに西田を紹介し、ユースメンバーに呼ばれることになったのである。

 中学時代と同じように、3つのチームで練習に励んだ西田は、11 月の三重県高等学校選手権大会(春高県予選)に臨んだ。海星高校は順調に勝ち進み、決勝で宿敵の松阪工業と対戦。試合は松坂工業に先行される苦しい展開から、セットカウント2−2に追いついてフルセットに持ち込んだ。


海星高校のエースとして活躍した西田(写真提供/母・美保さん)

 しかし最終セットの途中、西田の体力が限界を迎えた。高校生の通常の試合は3セットマッチだが、春高出場をかけた決勝だけは5セットマッチになる。エースとして、試合開始から全力でスパイクを打ち続けた西田の体がもたず、両足がつってベンチに下がらざるを得なかった。

 その後もコートに戻ることはできず、松阪工業の勝利を見ることしかできなかった。試合後、号泣する西田に対して、母の美保さんは「お前のせいで負けたんやぞ!」と叱責したという。

 かつて実業団でバスケットボールをプレーしていた美保さんは、勝負の世界の厳しさをよく知っている。西田も、「スポーツでは厳しい指摘は当たり前のことです。自分の力のなさを感じましたし、それまでの自分が甘すぎました」と振り返る。

「海星高校は全国に出たことがないチームだったので、先輩をはじめチームメイトをその舞台に連れていきたかったですし、僕自身も行きたい気持ちが強かったので……。その時が、これまでに一番の挫折を味わった瞬間かもしれません。あの敗戦のあとは、プレースタイルじゃなく、練習方法、食事などから自分を変えていきました」

 西田は部活動の練習がない日も、公共の体育館に行ってウェイトトレーニングをするようになった。また、食事も好物の肉ばかり食べていたのが、「アスリートとして何を食べたらいいのか、5大栄養素なども考えるようになりました」と話すように、野菜も積極的に摂るようになった。

 春高予選敗退後にチームの主将も任された西田は、「松阪工業を倒して全国へ」という目標達成に向けて、最終学年の3年生を迎える。(第4回につづく)