ロマンか酷使か? 日本野球の「エースシステム」誕生の歴史(前編)

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「球数制限」問題は、昨今始まったものではなく、日本に野球が伝わった直後から起こっていた。つまり「日本の野球文化」と深い関わりがある。ここでは日本の野球史を紐解き、「球数制限」議論のルーツを解き明かす。

■萌芽の時期からあった「エースシステム」

日本にアメリカから野球が伝わってきたのは1871(明治4)年前後とされる。アメリカから来たお雇い外国人、英語教師のホーレス・ウィルソンが、第一中学、現在の東京大学で野球の手ほどきをした。

曲折はあったが、ウィルソンらお雇い外国人の教え子が全国に野球を広めたとされる。最初の強豪チームは、第一中学の後身の第一高校学校だった。「一高時代」といわれ、明治の野球に画期をなす黄金期を迎えた。

初期の日本野球は、横浜居留地の米国人チームを倒すことを目標にしていたが、大男揃いで力も強いアメリカに対抗するために、少ない得点を好投手が守り切る戦法が取られるようになった。一人の投手が先発完投するスタイル(これを「エースシステム」と呼ぶ)は原初の日本野球にすでに存在したのだ。

日本最初の本格的なエースと言えるのが左腕投手の守山恒太郎(1880−1912)だ。1899(明治32)年に第一高等学校に入学した守山は横浜外国人チームに負けたことから発奮し、猛練習を重ねた。投げ込みすぎたために左肘が曲がってしまった守山は、大学寮の前の桜の木に左手1本でぶら下がり、痛みに耐えながら左手を伸ばしたという。チームメイトは感涙にむせんだ。守山の力投は「一高時代」の華と言って良い。

明治から大正期に入って、大学野球が日本中の人気を博するようになり、早稲田の谷口五郎、慶應の小野三千麿など、各大学のエースが花形になり、新聞紙上をにぎわせるようになる。

■甲子園の熱狂が始まる

1915年に大阪朝日新聞の主催で、現在の高校野球の全身である「全国中等学校優勝野球大会」が始まると、中等学校にも野球ブームが到来した。中等学校の生徒を指導したのは、東京六大学などで野球をした大学上がりの指導者だった。このために野球のスタイルは大学野球譲りであり、「エースが投げて守り勝つ」という「エースシステム」が主流だった。

大学野球、中等学校野球の指導的立場にあった早稲田出身のジャーナリストの飛田穂洲(1865―1965)は、日本独自の野球のスタイルを「一球入魂」と名付けている。

1924(大正13)年には、毎日新聞社主催の選抜中等学校野球大会が始まる。またこの歳、甲子園球場が開場し、中等学校野球は爆発的な人気を博した。中等学校とそれに相当する専門学校(商業学校、実業学校、工業学校、農業学校など)、師範学校で野球部が創設され、大学野球のスタイルを踏襲した野球指導が行われた。

■日本で発展した「野球のトーナメント」

注目すべきは、朝日、毎日だけでなく、全国の地方新聞社が同様の野球大会を主催したことだ。大会数が多くなったこともあり、地方新聞は中等学校の下の高等小学校の野球大会も行うようになった。昭和初期、広島県呉市には、二河小学校に藤村富美男、五番町小学校に鶴岡一人という天才的な野球少年が登場して、大きな話題となった。二人は後に野球殿堂入りする大野球人となったが、ともに小学校時代からエースとして全国大会でも活躍している。

朝日、毎日以外の新聞社の主催する中等学校や高等小学校の野球大会も、すべてトーナメントだった。今も少年野球の地域の大会は、ほとんどがトーナメント制だがこれもその時以来の習慣と言えるだろう。

アメリカの野球は「リーグ戦」が基本だった。そもそも「リーグ戦」という試合形式を考案したのもアメリカ野球であり、これをイギリスのサッカー関係者が取り入れてプレミアリーグを創設したのだ。

野球はリーグ戦で戦う競技として誕生したが、これを日本の中等学校野球がトーナメント戦へと変えたのだ。

日本のアマチュア野球は大学野球を除いて「トーナメント」が基本となった。このことが「一戦必勝主義」を生み、一人のエースが「腕も折れよ」と投げる「エースシステム」につながったと言えよう。

■職業野球もエースが引っ張った

1936(昭和11)年には、読売新聞正力松太郎が主唱して職業野球が始まる。これは1934年の米メジャーリーグ選抜の来日に端を発している。米にならってプロ野球リーグ戦を行い、将来的にはアメリカと「世界決戦」を行うという壮大な目標を掲げていた。

このために職業野球はリーグ戦で始まったが、試合数が少ないこともあり、野球のスタイルは一人のエースがチームを引っ張る「エースシステム」になっていた。

草創期の職業野球を代表するのが、東京巨人軍の沢村栄治(1917−1944)だった。沢村は旧制京都商業時代には甲子園にも出場しているが、中退して東京巨人軍に入団。1937(昭和12)年春にはチーム56試合のうち30試合に登板し24勝、防御率0.81で最高殊勲選手に選ばれている。しかし、兵役と登板過多によって1943(昭和18)年には巨人軍を解雇され、翌年に再度兵役につき戦死。

■板東英二の歴史的な投球

終戦後、連合国占領軍(GHQ) の政策もあって、野球の復興は比較的早かった。終戦の翌年にはプロ野球も中等学校野球(1948年から学制が変わり高校野球)も再開された。

アメリカ流の攻撃型の野球も紹介され、プロ野球では赤バットの川上哲治、青バットの大下弘と打者のスター選手が少年たちのアイドルになった。

しかし、高校野球では、依然として一人の投手が予選から甲子園の決勝までを一人で投げ切る「エースシステム」が主流だった。

1958年には、徳島商の板東英二が四国地区高校野球春季大会で、

・1回戦 徳島商 2−1 高知商(延長16回)

・決勝 高松商 2−0 徳島商(延長25回)

と41回を一人で投げぬき、全国的な話題となる。日本高野連は、選手の登板過多を懸念し、延長戦を18回で打ち切って再試合にすることを決めた。

日本高野連が投手の健康面に配慮を見せたのはこれが最初だった。

板東はこの年の夏の甲子園でも活躍する。

<全国高校野球選手権大会>

・2回戦 徳島商 3−0 秋田商 17奪三振

・3回戦 徳島商 3−1 八女 15奪三振

・準々決勝 徳島商 0−0 魚津 25奪三振(延長18回、引き分け再試合)

・準々決勝再試合 徳島商 3−1 魚津 9奪三振

・準決勝 徳島商 4−1 作新学院 14奪三振

・決勝 柳井 8−0 徳島商 3奪三振

板東は、この春、自分の投球がきっかけで導入された新規則の適用第1号になって、引き分け再試合をすることになった。

板東の力投を各新聞社は絶賛した。(広尾晃)

後編に続きます