「スワローズ ドリームゲーム」に出場した安田猛氏【写真:荒川祐史】

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11日のヤクルトOB戦ではマウンドに上がった安田氏

 昭和の巨人ファンに幾度となくため息をつかせた元投手が、小雨舞う神宮球場で大歓声に迎えられた。7月11日、ヤクルトの球団設立50周年を記念したOB戦「オープンハウス presents スワローズ ドリーム ゲーム」に出場した安田猛氏。2017年に癌が見つかり余命1年の宣告を受けたが、今も健在で母校での指導も続けている。現役時代、大打者の王貞治氏(現ソフトバンク球団会長)にめっぽう強かった「王キラー」には、72歳になっても追いかける夢があるという。

 わずか2球でも、高揚感を抑えられないように表情を崩した。1回2死で登板した安田氏が、ゆったりしたフォームで白球を放る。現役時代は力感のない小気味いいサイドスローで「ペンギン投法」の異名をとったが、「横から投げとったら球が届かんわ」と豪快に笑って“封印”。引退した81年以来という神宮のマウンドを、つかの間でも堪能した。

 中高年以上のヤクルトファンには、きっと鮮烈な背番号「22」の姿が記憶に刻まれている。72年に入団した173センチの小柄な投手は、1年目から7勝5敗、防御率2.08の成績を残し、新人王と最優秀防御率を受賞。翌73年にはプロ野球記録の「81イニング連続無四球」を樹立した。「新人王は毎年出るけど、この記録ばかりはこれから先も抜かれんのじゃないかな」と胸を張る。78年には15勝を挙げ、初優勝の原動力になった。

 ヤクルト一筋10年間で通算93勝。成績もさることながら、ファンの心を鷲掴みにしたのは「世界の王」をピシャリと抑える頼もしい姿だった。「とにかく向かっていったね。134、5キロでもね、抑えられる。インコースにズバッとね」。九州男児の闘争心で攻めの姿勢を貫き、いつしか「キラー」の称号がついた。

 そんな昭和の名投手は引退後、コーチやスコアラーなどを歴任。70歳を迎えた17年には、母校である福岡・小倉高のコーチに就任した。孫のような後輩球児たちと過ごす日々。新たな夢を意気揚々と追うはずだったが、病魔は残酷だった。その年の春先に体調を崩し、ステージ4のスキルス性胃癌と診断された。医師からは余命1年程度だと言われ、すぐにコーチを退任した。

王貞治氏からは激励の色紙が届く「癌なんかに負けてたまるか! 笑って死んでやる!」

 目の前にいきなり突きつけられた人生の岐路。それでも、マウンドで見せた勝気な姿は、影を潜めることはなかった。

「癌なんかに負けてたまるか! 笑って死んでやる!」

 かつての“好敵手”からの思いもよらぬ激励にも、心を支えられた。診断されてから約3か月後、知人を通じて1枚の色紙が届いた。送り主は「王貞治」。達筆な文字で、こう記されていた。

「気力を持って、乗り切ってください」

 その色紙は、新人王と連続無四球記録の賞状の間に飾った。「もう、本当にうれしくてね」。すぐにヤフオクドームに出向いてお礼を伝え、その翌年にはソフトバンクの春季キャンプにも訪れた。倒すべき敵となった癌と向き合い、6週間に1度のペースで抗がん剤治療などを継続。すると、次第に治療の負荷も少なくなっていったという。「病院の先生からは『1年前と比べてもがんは進んでいない』と言われてね。ただ、完治はせん。一生付き合っていくしかない」

 衰えない情熱が、体を動かす。今も治療の合間を縫って福岡に通い、高校生たちの指導に精を出す。余命1年の宣告から、間もなく2年半。次なる夢を問われると、黒々と瞳を輝かせて豪快に言った。

「そんなもん決まっとるやろ、小倉高校の甲子園出場や!」(小西亮 / Ryo Konishi)