「試合に出場していない私も殴られた」 『スクール☆ウォーズ』伏見工業の山口良治監督、弱小チームを変えた熱血指導【追悼】
物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は5月29日に亡くなった山口良治さんを取り上げる。
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一人一人を殴って……
1975年5月、京都市立伏見工業高校のラグビー部監督に就任したばかりの山口良治さんは、京都の強豪、私立花園高校との試合に臨む。だが、0対112と記録的な大敗を喫した。
同年、伏見工業ラグビー部に入部、最初の教え子にあたる清水悟さんは言う。
「試合が終わり山口先生は選手を集めると怒るのではなく、おだやかに話し始めたのです。私らは黙って聞いていました。同じ高校生相手に悔しくないのか、と先生に問われ、“悔しい”“勝ちたい”の言葉がキャプテンの小畑道弘さんをはじめ先輩から出てきました。先生は、この気持ちを忘れるな、必ず勝つ、と一人一人を殴りました。出場していない私も殴られた。先生も泣いていた。この頃、高校は荒れていて『御意見無用』とジャージに書いたラグビー部員もいた。でも先生は私らに本気で接し、信じて期待してくれた。先生の殴った思いが分かり、悔しさから皆の目標ができた。あの試合からラグビー部が変わったのだと思います」

弱小校だった伏見工業は惨敗から6年後の81年に、全国高校大会で初優勝を果たす。山口監督の熱血指導が生徒の心を動かし、高校ラグビー日本一に導いた足跡は、テレビドラマ「スクール☆ウォーズ」(84〜85年)のモデルにされ、大ブームに。山口監督は山下真司演じる滝沢賢治として登場。「悔しくないのか」と監督が鉄拳を振るう場面は今も語り草となっている。
負けん気が強い熱血漢
43年、福井県の現在の美浜町生まれ。当時の若狭農林高校時代ラグビー部で一緒にプレーした前美浜町長の山口治太郎さんは言う。
「学年は一つ上の先輩。地元で健康優良児の1位に選ばれただけあり、タックルに迫力がありました。負けん気が強い熱血漢、気は優しい。後輩へのしごきなんてなかった。一人残ってキックの練習をしていた。素質があって努力家でした」
日本体育大学を卒業後、社会人ラグビーチームからの誘いを固辞して岐阜県で公立高校の教師に。ラグビーの実力は認められており、66年、日本代表に招集された。71年にはイングランドと3対6の接戦を演じた試合で唯一の得点を記録した。
校内でバイクにひかれかけたことも
代表を退き、74年、伏見工業に体育教師として赴任。喫煙や暴力が日常茶飯事でも日本代表の経験者に部員は喜ぶだろうと楽観視していた。だが、逆に生徒にすごまれ校内でバイクにひかれかけた。
不良を叱るだけでは離れてしまう、非行には必ず原因があり、順にたどっていけば分かり合えると根気良く向き合った。こうして翌年、ラグビー部監督に。大敗で変化が生まれた。
「細かな技術より基礎の反復練習でした。ひたむきにやり通す。山口先生は何から何まで一人でされていた。ラグビー以外にも約束を守れとか毎日の生活の注意もしてくれた。部員一人一人を見てくれているのが分かった」(清水さん)
泣き虫先生
76年には早くも近畿大会で準優勝、打倒花園高も果たす。山本清悟、大八木淳史、平尾誠二らが次々に活躍、81年の日本一につながる。山口さんは涙もろく、「泣き虫先生」と呼ばれた。
総監督時代を含め全国制覇を4度成し遂げた。教え子との縁を大切にしていた。
「私は高校卒業後ラグビーを離れ、京都で中華料理店(清華園)を開いたのですが、何でも一生懸命やればいいと先生は区別などしなかった。先生は唐揚げが好きでした」(清水さん)
5月29日、脳梗塞のため83歳で逝去。
「亡くなる数日前のことです。先生のお知り合いの方がお客さんとして来られ、先生にLINEを送るとすぐに返事を下さった。私の体調を気遣う内容で驚いた。先生に心配をかけまいと伝えていなかったのです。どこかで知り、高校生の時のように見守ってくれていたのですね。いくら感謝しても足りません」(清水さん)
「週刊新潮」2026年6月11日号 掲載
