「このボタン、1pxだけ右にズラしてもらえますか?」エンジニアがキリキリする文系人材の悪気のない一言
※本稿は、米村歩『「技術的には可能です」はなぜ伝わらないのか エンジニアのコミュニケーションの教科書』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■背筋が凍りモヤモヤする“現場の一言”
システム開発の現場で、デザイナーがエンジニアに向けて放つ「ここ、1pxだけ右にズラしてもらえますか?」という一言。
これに対して、モヤッとしたり、あるいは背筋が凍るような思いをしたりしたことのあるエンジニアは決して少なくないはずです。ここで、本書に登場するマンガのエピソードを見てみましょう。


■1カ所直して全体が崩壊する「デグレ地獄」
「デグレ」とは「デグレード(退行・劣化)」の略で、プログラムの一部を修正した結果、今まで正常に動いていた別の場所が壊れてしまう現象を指します。
マンガで弱木が触れた「共通部品」というのは、システム内のあらゆる画面から使い回されているプログラムの心臓部のようなものです。そこを1カ所いじるということは、他の多数の画面にも一斉に影響を与えることを意味します。
弱木は念入りにテストを行い、無事にリリースしたつもりでした。しかし数時間後、顧客から「A画面の保存ボタンが反応しません」「B画面もエラーです」「C画面の入力チェックが効いていません」と、次々に他の画面での不具合が報告され始めます。
あわててA画面を直すと、今度は共通ロジックの別の条件分岐に影響が出てB画面がおかしくなる。B画面を直せばC画面が壊れる……。完全なデグレの連鎖です。
このように、複雑な共通部品の変更は「1つ直すと別の場所が壊れる」という負のループを生み出し、エンジニアを底なしの沼へと引きずり込んでいきます。

■悲劇を生み出す「見えている世界」の違い
なぜ、このような悲劇が起こるのでしょうか。それは、デザイナーとエンジニアとでは、同じ画面を見ていても「見えている世界」がまったく違うからです。
デザイナーが主に見ているのは、画面の美しさや一貫性、ユーザーが触れたときの感覚、余白や視線の流れといった「体験の表側」です。だからこそ「ここが少しズレている」「入力途中はボタンを押せない方が親切だ」という違和感を、瞬時に拾い上げます。
一方、エンジニアが見ているのは、画面の裏側に広がる「構造」です。入力チェック、状態遷移、例外処理、非同期通信、そして共通部品の依存関係など、裏側でどれだけ多くの条件が複雑に絡み合っているかを常に意識しています。
この“見えている世界の違い”が、そのまま「軽微」という言葉の意味のズレにつながります。デザイナーにとっての「ちょっとした修正」は、本当に1分で終わる感覚かもしれません。
しかしエンジニアにとっては、それが共通部品の修正であり、他のすべての画面のレイアウト再計算やテストケースの全面的なやり直しを意味する「大工事」になることがあるのです。どちらも仕事としては間違っていないからこそ、前提のズレが衝突を生んでしまいます。

■善意の「ついで対応」が火種になる
こうした場面で、現場の空気をさらに悪化させる要因があります。それは、エンジニアの「善意」です。
「この修正、急ぎじゃないけど今のうちについでに直しておいてもらえると助かります」――デザイナーからそうお願いされたとき、エンジニアは「少し無理をすればできるし、協力しよう」という親切心から、「承知しました。ついでに対応しておきます」と引き受けてしまうことがあります。
しかし、この善意が危険な火種になります。周囲は「なんだ、やっぱりすぐに直せるんだ」と学習してしまい、次回からも軽微な変更が前提のように扱われるようになります。気づけば、本来なら慎重に時間をかけて対応すべき共通部品の修正までが、当たり前のように「ついでのお願い」として流れ込んでくるようになるのです。
親切心から始まった柔軟な対応が、長い目で見ればチーム全体の首を絞め、デグレ地獄のリスクを跳ね上げてしまいます。
■見えない構造を見える言葉に翻訳する
目に見える画面の裏側には、巨大で複雑な配線が広がっています。しかし、その配線が見えるのはエンジニアだけです。デザイナーや経営陣が裏側の事情を知らないのは当然であり、説明しない限り、いつまでも「画面の一部をちょっと変えるだけ」という感覚のままです。

片方だけが裏側の事情を知っていて、もう片方は知らない。この「情報の非対称性」がある限り、コミュニケーションの溝は埋まりません。だからこそ、画面の裏側を見通せるエンジニアが、自らその状況を言語化し、相手に伝える必要があります。
ユーザーにとっての価値を追求するデザイナーの目的には共感しつつも、「なぜその変更が重いのか」「どこまで影響が広がるのか」をしっかりと伝えること。
価値(ユーザーの利便性)と工数(実現のためのコストやリスク)の両方を同時に見られるのはエンジニアだけです。
見えない構造を見える言葉に翻訳し、現実的な落とし所を提案する「通訳」になることこそが、エンジニアの重要な使命なのです。
「1pxズラして」という言葉に対して、ただ内心で不満を抱えたり、無理をして安請け合いしたりするのではなく、裏側の世界を共有して対話のテーブルに引き上げる。それが、デグレ地獄を防ぎ、チームの信頼関係を守るための第一歩となるはずです。

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米村 歩(よねむら・すすむ)
アクシア代表取締役社長
1979年埼玉県生まれ。青山学院大学卒業後、システム開発会社に入社。その後フリーランスの期間を経てアクシアを設立。設立当初、残業過多の勤務体制から、2012年を境に「残業ゼロ」を断行し現在も継続中。2017年には「ホワイト企業アワード」労働時間削減部門で大賞受賞。「エンジニアが幸せになれる会社とは?」をテーマに、IT企業経営に関する情報をSNSで発信している。著書に『完全残業ゼロの働き方改革』(プチ・レトル)がある。
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(アクシア代表取締役社長 米村 歩)
