【豊臣兄弟!】女子供の磔が池松壮亮「秀吉」のトラウマに…というウソ NHK大河では描けない残虐行為のおぞましい中身
庶民的でいい人だったら天下は獲れなかった
豊臣(羽柴)秀吉は人気がある。NHK大河ドラマで繰り返し描かれてきたのも、絶大な人気があるがゆえだろう。織田信長の場合、そのカリスマ性が人気の原因だとすると、秀吉は庶民性に惹かれる人が多いようだ。百姓出身だったことも、人たらしといわれた人心掌握術も、庶民的なイメージ、ひいては親しみやすさにつながっている。
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だからだと思うが、NHK大河ドラマで描かれてきた秀吉はたいてい、明るくていい人だった。今年の『豊臣兄弟!』で池松壮亮が演じる秀吉も例外ではない。

秀吉が百姓出身だったのは史実であり、実際、ある種の庶民性は備えていたかもしれない。だが、人たらしだから「いい人」だったとはかぎらない。秀吉の場合、類まれな人心掌握術を、あくまでも自分に有利な状況をつくるために使ってきた。だから天下を獲れたのである。秀吉とは徹頭徹尾したたかな政治家で、人たらしも武器だった。必要であれば、どんなに残忍な手段もいとわなかった。本当に庶民的でいい人だったら、天下など獲れていない。
したがって秀吉のことは、もっと利己的な人物として描いたほうがいいと思うのだが、視聴者に忖度するのか、なかなかそうは描かれない。天下統一を成し遂げて以後の晩年はともかく、それまでは庶民的な「いい人」として描かれる傾向にある。結果として、多くの人が秀吉の実像を誤解する結果になっているのを、筆者は少々歯がゆく感じている。
そんななか、『豊臣兄弟!』の第21回「風雲!竹田城」(5月31日放送)は最後の場面で、ようやく秀吉は本領を発揮するか、と期待をもたされた。というのも、竹田城を無血開城させて安堵している弟の小一郎(仲野太賀、のちの秀長)のもとに、秀吉の与力である前野長康(渋谷謙人)がやってきて、「上月城のことで、少し気になる話を耳にしました」と告げ、以下のように話を継いだのだ。
残党をことごとく磔にした
「上月城の者はみな斬首され、女子供にいたるまで磔、串刺しにされて、西との国境にさらされたと。それをお命じになったのは、羽柴筑前守様であると」
小一郎は衝撃を受け、続いて、磔や串刺しにされた女や子供たちの前に、秀吉が立ち尽くす映像が流された。
だが、小一郎が呆然とするのもおかしな話で、史料に描かれる秀吉は、こうした残虐行為を当たり前に行っている。秀吉への忖度もあったと思われる同時代の史料にも、そうしたことが当たり前に描写されている。たとえば、信長の祐筆だった太田牛一の『信長公記』には天正5年(1577)のこととして、上月城(兵庫県佐用町)への攻撃が以下のように書かれている。
〈十一月二十七日、羽柴秀吉は熊見川を渡り、敵方上月の城へ攻撃を開始した。(中略)七日目に、城内の者が城将上月景貞の首を斬って持参し、残る者の命は助けてくれるよう嘆願した。秀吉はただちに、上月城主の首を安土へ送って信長の実検に供し、上月城に立て籠もる残党をことごとく引き出して、播磨と備前・美作両国との国境に磔にしておいた。陥落した上月の城には、山中幸盛を入城させた。また福岡野の城も攻撃し、敵方の首二百五十余を切り捨てた。こうして秀吉は、但馬・播磨両国を平定したのである〉(中川太古訳、以下同)
つまり、城主の首と引き換えに、城内に残る人々の命は助けてほしい、という懇願を秀吉は無視し、みなことごとく磔にして毛利方との国境にさらした、ということだ。しかも、秀吉自身が近江(滋賀県)の下村氏に戦況を報告した書状(『下村文書』)には、「城兵全員の首をはね、女子供二百人余りを備州、作州、播州の国境へ引き出し、みせしめのため子供を串刺しに、女ははりつけにした」とまで書かれている。
おまけに福岡野城(兵庫県佐用町)でも、敵方の首はみなはねたというわけだ。また『信長公記』には、続いてこう記されている。
〈秀吉は、先に北国加賀の陣から無断で引き揚げ、信長に叱責されて窮したものだから、このたびは西国で懸命の努力をし、戦果をみやげにして帰陣しようと思い、夜を日についで駆け回ったのである。このたびの粉骨砕身の働きは、まことにめざましいものであった〉
柴田勝家が総大将を務める「加賀の陣」から秀吉が無断で帰陣し、信長を激怒させた場面は『豊臣兄弟!』でも描かれた。要は、秀吉は、自身の失地を挽回するために、戦果を挙げるべく〈粉骨砕身の働き〉をし、敵は皆殺しにした。それが秀吉であり、『信長公記』もこの戦果を〈まことにめざましいもの〉と肯定的に評価している。つまり、当時はこうした皆殺しが、取り立てて残虐とは受け止められなかった、ということもわかる。
凄惨な光景に耐えられないというナンセンス
さて、磔や串刺しにされた女子供たちの前に秀吉が立っていたということは、ついに『豊臣兄弟!』でリアルな秀吉が描かれるということか。しかし、そうではないようだ。第22回「播磨大誤算」(6月7日放送)で、小一郎から問い詰められた秀吉は、城に入ると城内の者はみな自害していたと明かす。ただ、竹中半兵衛(菅田将暉)が、わざと自分たちが手を下したように見せたほうが、敵に対する見せしめになると提言したので、それに従ったというのだ。
『信長公記』に当たり前のように書かれている斬殺は、秀吉の仕業ではないことにされてしまうのである。しかも、秀吉を「いい人」として描くために、さらなる仕掛けが凝らされている。秀吉は上月城を退いてから悪夢にうなされ、記憶が戻らない。それがあるとき、上月城の凄惨な光景がフラッシュバックし、耐えきれずに飛び出す。城内の人々がことごとく死んでいた情景に、それほど大きなショックを受けた、という描き方になるわけだ。
だが、すでに述べたように、そんなにやわな「いい人」だったら、百姓から成り上がって天下を獲るという離れ業を成し遂げられたはずがない。それ以前に、凄惨な光景を見て記憶を失っているようでは、戦国時代を生き抜くことなど到底できない。『信長公記』が記したように、ある地域を平定するためには敵を皆殺しにすることも必要で(少なくともそう認識されていて)、その戦果が「まことにめざましい」と評価されるのが、戦国時代の常識だった。
しかも、史料にも秀吉が行った残虐行為について書かれているのに、それを隠して、現代的なヒューマニズムや人権意識を持ち込んでしまえば、その時点で戦国時代の描写ではなくなってしまう。凄惨な状況に対して、史実を無視してまで目をつぶりたいなら、戦国時代はドラマ化しないほうがいいと思う。
尽きない秀吉の残酷なエピソード
その後、秀吉が行った「三大城攻め」は、味方の損失は最小に抑える作戦で、その意味では、なるべく血を流さない戦術だったが、目的は人命尊重ではない。あくまでも兵力を温存するためであり、しかも、敵に対してはきわめて残酷な戦法だった。
上月城を落としてしばらくすると、三木城(兵庫県三木市)の別所長治が毛利方に寝返って籠城した。これに対して秀吉は、天正6年(1578)から徹底的な兵糧攻めを開始。周囲に40もの付城(敵の城に対峙して築く臨時の城)を築いて1年10カ月にわたって包囲し、食糧の補給路を完全に断って降伏させた。
このとき「三木の干殺し」という凄惨な状況が生まれた。餓死する者が続出し、生き残った者は牛馬のほか、壁の土や草の根、さらには餓死者の肉まで食べたと伝わる。結局、別所一族の自刃と引き換えに城兵を助ける、という約束で降伏させたのだが、秀吉は助ける約束の城兵を虐殺したという史料もある。
天正9年(1581)に鳥取城(鳥取市)を攻囲した際は、より徹底した封鎖作戦がとられ、「鳥取城の渇え殺し」という凄惨な状況が生じた。周囲の米を相場の数倍もの高値で買い占め、城内への備蓄を困難にしたうえで2万の大軍で包囲して、外部からの補給を完全に断った。その結果、城内では人肉の奪い合いさえ起きたと伝わる。
続けて、天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が起きた時点で行っていたのが、「高松城の水攻め」だった。備中高松城(岡山市)の周囲に堤防を築いて水を引き入れ、城兵を飢えさせて降伏に導いたのだ。
信長がいなくなってからの秀吉は、さらに残酷な策を平気で講じるようになるが、信長の配下で働いていた時点でも、ここまで残酷だった。だが、これを残酷といっては秀吉に失礼かもしれない。戦国時代の常識に照らせば、これだけが取り立てて残酷だったとはいえないからである。そして、秀吉がその「常識」から目を背けていたら、豊臣政権は誕生していなかったに違いない。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
