【コシノジュンコ 我が道7】自宅に響いたドミンゴの歌声 世界三大テノールの一人も…知らなかった
人との出会いは本当に不思議。いつどんな人と何がきっかけで知り合うか、誰も予想はつきません。お世話になった樋口廣太郎さんと知己を得たのも思わぬことからでした。樋口さんは、実業界で活躍する日本経済のリーダー的存在の一人。エネルギッシュで歯に衣(きぬ)着せぬ、その言動に意表を突かれることもありました。
当時の私の自宅は8階と9階のメゾネットで「枝垂桜(しだれざくら)」を生けていました。その様子がテレビ番組で紹介されると、突然、「家を見せてほしい」と電話がかかってきました。その人が樋口さんだったのです。我が家の玄関ドアを開けるやいなや、開口一番、「あまりお金がかかってない家やなあ」。私は「なんて失礼な人」と内心思いながら、こう言い返しました。「空間にお金をかけました」
互いに強烈な第一印象でしたが、それが妙に新鮮で、その後、ファッションショーに来ていただくことに。ある日、ショーが終わると、樋口さんからこんな提案がありました。「なんでフィナーレの音楽をドミンゴにせえへんの」。樋口さんは、世界三大テノールの一人、プラシド・ドミンゴの熱烈なファン。その時、私は「ドミンゴ?誰?」。残念ながら、その名前も知らなければ、三大テノールも聴いたことがありません。
奇跡のようなことが起きたのは、そのわずか1時間後。打ち上げパーティーのためレストランに行くと、友人で店のオーナーから「ジュンコちゃん、ドミンゴさんが来てるから紹介しようか」と言われたのです。隣の席で食事をしている紳士こそ、その人だったのです。恐る恐るごあいさつすると、「よかったら楽屋にも来てください」とチケットまでいただきました。
おかげで私はすっかりオペラ好きに。1990年7月7日、サッカーW杯イタリア大会決勝戦の前夜祭。ローマのカラカラ浴場で、ドミンゴ、パバロッティ、カレーラスの三大テノールが初めて顔をそろえたコンサートにも行くことができました。これ以来、3人の共演はW杯の目玉イベントになり、日韓が共催した2002年まで続きました。
ドミンゴとの再会で、私はどうしても彼にかなえてほしいお願いがあったのです。それは「体調を崩して入院中の樋口さんのために一曲歌ってほしい」。私がそう頼むと、ドミンゴは快く引き受けてくれました。病院で歌ってもらうわけにもいかず、そこで思いついたのが私の家。2000年に現在の家を建てたばかりでした。樋口さんに初めて出会った時のように、また見てほしかったのです。
観客は私たちだけ。ドミンゴが歌ったのは「オー・ソレ・ミオ」。樋口さんは目を閉じてじっと聞き入っていました。窓ガラスが震えるような圧巻の声量。あの時の歌声が今でも胸の奥に響いています。
◇コシノ ジュンコ 文化服装学院在学中に装苑賞を受賞。1978年から22年間、パリ・コレクションに参加。世界各国でファッションショーを開催、国際的な文化交流に力を入れる。オペラ、DRUM TAOの舞台衣装、花火、ユニホーム、インテリアのデザインなどを手がける。フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ受章、旭日中綬章受章。2025年11月には文化勲章受章。大阪府岸和田市出身。
