数多くの著名人のヘアメイクを手掛ける、ヘア&メイクアップアーティストの小田切ヒロさん(44)。登録者数165万人超えのYouTubeチャンネル『HIRO BEAUTY CHANNEL』を運営し、総フォロワー数は390万人(2026年5月時点)を誇る。

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「美のカリスマ」として脚光を浴びる存在だが、その裏には想像を絶する幼少期があった。5歳で両親が離婚。父の再婚後、継母から“洗脳”と虐待を受けていたという。彼はなぜ、その過酷な環境を生き抜くことができたのか――。小田切さんに話を聞いた。(全4回の1回目/2回目に続く)


小田切ヒロさん ©三宅史郎/文藝春秋

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5歳で両親が離婚→父親が再婚して7人家族

――小田切さんが育った家庭について教えてください。

小田切ヒロさん(以下、小田切) もともとは父親、母親、3歳上の姉、私、2歳下の弟の5人家族だったんですね。でも、私が5歳の時に両親が離婚して、私たちきょうだいは父親に引き取られたんです。

 そして、それからすぐ父親が再婚しまして。相手の女性、私からすれば継母ですけれど、継母にも連れ子が2人いましたので、最終的には父親、継母、連れ子の姉2人、姉、私、弟の7人家族になりました。

――お父さんはどんな人だったのでしょうか。

小田切 酒・金・女、というようないわゆる「昭和のどうしようもない男」みたいな感じで、家に帰ってこないこともよくありました。

――小田切さんの実母とお父さんが離婚したのは、お酒や女性関係のことが原因だったのでしょうか。

小田切 それもあると思います。あとは継母から聞いた話なので真実かはわからないのですが、母親のへそくりが入った袋を父親が間違って捨ててしまって、大喧嘩になったのもきっかけみたいで。

記憶に残る母の姿は、走って逃げて行く背中だった

――実母がどんな人だったか、記憶はありますか。

小田切 おばあちゃんの家で離婚の話をしていた時、母親が逃げて家を出ていった記憶は鮮明にあります。

――小田切さんはその光景を見ていたのですか。

小田切 母親がバーッと走って逃げて行ったんですよ。離婚の話をしていることがわかっていたから、私と姉は母親について行きたくて、母の背中を走って追いかけたんです。でも、私は転んでしまって。そのまま走って逃げて行く背中が、母親の姿を見た最後の記憶です。

――お姉さんはお母さんに追いついたのでしょうか。

小田切 いえ、結局見失ってしまって、泣きながら戻ってきました。

「お正月になると毎回“殺し合い”の喧嘩」継母が豹変した理由

――それでお父さんが再婚して、継母や連れ子の姉2人も一緒に住むことになったのですね。

小田切 そうです。でも父は再婚するにあたって、継母に弟の存在を隠していたんです。

――それはなぜですか?

小田切 弟には知的障害があったんです。だから、父は再婚するタイミングで弟を施設に入れたんですが、継母は、再婚して1年経つまで弟の存在を知らなかったそうです。弟は1年に1回、お正月になると施設から帰ってくるので、そこで初めて知ったと。

 多動症でずっと止まっていることができない子で、理性が利かないので何でも壊しちゃうし、食べちゃうし、取っちゃうしという性質なので、お正月の三が日はその弟をなだめるのに必死な家庭でした。

――弟の存在を知った継母は、どんな反応をしたのでしょうか。

小田切 もともとは正常な人間だったのかもしれませんが、それを機に豹変してしまいましたね。「まさかこの子の面倒まで見なければいけないのか」という感じで。

 本来そんな子がいると聞いていないわけですから、継母と、継母方の姉2人はストレスが溜まっていきますよね。それからはもうお正月になると毎回、“殺し合い”の喧嘩が発生するようになって。

継母からの洗脳によって、姉との仲を引き裂かれ…

――具体的にはどんな喧嘩になったのですか。

小田切 継母が包丁を持ち出して、父に向けるんです。それが毎年。お正月になるとそういう騒ぎで警察沙汰になるものですから、今でもお正月がすごく苦手なんです。スーパーなんかでお正月によくかかっている音楽があるじゃないですか、あれを聞くと吐き気を催しちゃって。

 当たり前ですけど、お正月に帰ってくる弟は毎年、大人になっていくんですね。それがどういうことかというと、力がつくようになって、より暴力の強度が上がっていって。

 だから家の中が半壊状態になり、性的な感情も芽生えてくるので、痴漢みたいなことをしちゃいそうになったりとか。そういった犯罪手前のギリギリのことを家庭内で収めるような状況が続いていったんです。

 そんな中で、だんだん継母がおかしくなっていきまして。父親だけでなく、父親方の私と姉のことまで恨むわけです。ひとつ屋根の下で嫌がらせをされるようになり、それからがもう、地獄の始まりといいますか。

――どんな嫌がらせをされるようになったのでしょうか。

小田切 姉と私は、やっぱり血筋があると通じ合うものがあって、危機的な状況下で助け合うんですね。常に怯えて生きている状況なので、グルになるんですよ。

 でも、継母は私たちの仲をうまく裂くような“洗脳”を始めていったんです。そうしていつの間にか、姉は完全に洗脳されてしまって、私との間に亀裂が入ったといいますか、姉の心がどんどん離れていくのを感じていました。

「継母は私と姉を使って、父からお金を引っ張るようになった」

――お父さんはそれを止めなかったのですか。

小田切 そうですね。金融業をやっていたんですけれど、再婚してから成り上がりでビジネスがうまく行ったんですよ。その途端に家にお金も入れなくなってしまって、帰ってこなくなり、家にいる時は酒を飲んで、という感じで。家のことには無頓着でした。

 だから継母は当時、離婚を考えたそうなんですけれど、そうすると父親についている姉や私が将来どうなるかわからないと思ったらしく。

――それで離婚を思いとどまったのでしょうか。

小田切 私が高校生の時に、継母はそう言っていました。私たちに嫌がらせをするほど恨んではいましたけれど、一方で本当はそういう思いも持っていたのかもしれないです。

 けれども父が家にお金を入れないので、継母は私と姉を使って、父からお金を引っ張るようになったんです。

――継母は、どのようにお金を引き出そうとしたのですか。

小田切 私たちに月謝袋を持たせて、父のところに行かせるんです。「習い事をしている」「塾に行っている」と嘘をついて、お金をもらってこいと。要するに運び屋ですよね。

 それを毎月やらされるんですけど、子どもながらにいけないことをしているというのがわかるんですよね。その罪悪感に耐えられなくなったのが小学5年生の時でした。

小学校の先生に助け船を求めるも、継母に告げ口されてしまった

――どうしたのですか。

小田切 友達には言えないし、誰に相談したらいいかわからない時に、教育実習に来ていた先生がいたんですね。先生は当時27歳だったんですけど、小5の子どもからするとすごく大人に見えて。

「この先生だったら助けてくれるかも」と思って、大学ノートにびっしりと過去のことを書いたんです。「こういう状況でこういうことが起きているから、助けてほしい」と、助け舟を求めてそのノートを渡したら、そのことを継母に告げ口されてしまって。

――継母はどのような反応をしたのですか?

小田切 そこから食事の時も寝る時も、家族と引き離すような、隔離するような育て方をされるようになって。生活がガラッと変わったんです。おそらく「これはまずい」と思ったのと、彼女なりに私のことを育てている自負があったから、私への恨みが強くなったのかもしれません。

――大学ノートを先生に渡した時、小田切さんは子どもながらに先生にどうしてほしかったのでしょう。

小田切 ただただ助けて欲しかった。「今のこの生活がどうなってほしい」じゃなくて、今の生活じゃない生活になりたかったんです。でも、その最良の生活はわからない。

 本当の母親に引き取りに来てほしかったのか、継母と父親が再婚する前の、元の家族に戻りたかったのか。ただ家でのいじめや、いろいろな苦しみから逃れたいとしか思っていなかったですね。

 私のセクシュアリティのことで、当時、学校でもいじめを受けていたんです。だから性格も、すごく内向的な子どもだったと思います。

「継母の背中を刺そうと何度も思った」それでも一線を超えなかったワケ

――家でも学校でもいじめを受けていたのであれば、居場所がなかったのではないですか。

小田切 逃げ場がなかったですね。学校の先生も信用できなくなってしまって。ただ幼い頃の私を知る人が言うには、私はすごく社交的で、お友達を引っ張っていくようなリーダーシップもあったそうなんですよ。

 でも、そういうポジティブな記憶が自分には一切残っていない。だからもしかしたら、どこかで自分に「不幸」というレッテルを貼るようになったんじゃないかって。

――それはどうしてでしょうか。

小田切 自分を守るためだと思います。不幸だと思い込んで不幸でいた方が、楽だったのかもしれませんね。「僕は不幸。不幸だから、不幸が来たって普通だよ」というふうに、自分を設定していたんでしょうね。

――継母からは、身体的な暴力も受けていたのですか。

小田切 もちろん。あまりにも辛くて小学生の時に、果物包丁を握ったことが何度もありました。

――継母を刺そうと考えていた?

小田切 背中を刺そうと思ったことが何度も。でも、一線は超えなかったんですよね。何が自分を止めたのかはわからないんですけれど、まだ救いがどこかにあったのかもしれないですね。

 学校に友達がいたことだったのか、いじめを受けていてもまだ学校に通えていたことだったのか。お人形遊びや手芸が大好きで、編み物大会で3年連続1位になったりして。そういう楽しみもあったから、継母を殺さなくても生きられると、どこかで思っていたのかもしれません。

写真=三宅史郎/文藝春秋

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(吉川 ばんび)