「本当は怖いんですよ。いつ怒鳴られるかと…」棋士を撮ったカメラマンだけが知る、藤井聡太に挑む者たちの“剥き出しの素顔”
盤上に命を懸けるプロ棋士たちの素顔を、誰よりも間近で目撃する者たちがいる。将棋記者とカメラマンだ。
【画像】完全プライベートの伊藤匠、佐々木勇気の“鬼のような形相”も…野澤カメラマンの写真を一気に見る(全16枚)
今年4月、ともに新刊を上梓したカメラマンの野澤亘伸氏(『師弟 棋士の見る夢』)と、朝日新聞記者の北野新太氏(『夜を戦う 純情順位戦』)。その両者による対談が「文春オンライン」で実現した。

野澤亘伸(撮影=北野新太)
これまで幾度も現場を共にしてきた二人。会話は自然と、現場で接してきた棋士たちの話題になった。(全3回の1回目/つづきを読む)
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全身の血が滾るような現場
北野新太(以下、北野) 棋王戦第4局の局後の対局室でお会いしたとき、全く話すタイミングがありませんでしたけど、野澤さんがどこから撮るのか、レンズは何を使っているのか、とかは意識して見ていました(笑)。棋士を撮るときに、自分に課しているルールってありますか?
野澤亘伸(以下、野澤) やはり対局者の集中力を妨げないというのは大前提としてあります。撮りたいというカメラマンのエゴを、どこまで許してもらえるか。これはスポーツ選手やタレントを撮る時も同じで、踏み込める境界を阿吽の呼吸で読まなければ、プロの現場ではやっていけない。
対局の現場は朝がいいですよ。始まる前の緊張感が写真に写り込む。でも最近、雑誌は終局後にしか入れないことが増えました。以前に『将棋世界』の撮影のとき、昼食休憩にも入れたんです。菅井竜也八段が藤井聡太王将に挑戦した第一局でした。菅井八段は休憩をわずか10分程度で済ませて、対局室に戻って一人で考えているんです。
背中からもの凄い圧が出ていて、空気はピリピリするほど張り詰めていた。ファインダーを覗くと、観たこともない表情で盤を睨んでいる。全身の血が滾りましたね。にじり寄ってカメラを向けるのは、本当は怖いんですよ。いつ怒鳴られるかと。でも、こんなシーンを前にして、撮れずに下がるようではカメラマン失格です。後ろで『将棋世界』の編集者がハラハラしながら見ていて、菅井八段がトイレに立ったときには冷や汗が出たと言っていましたけども。
北野 昼食休憩時の撮影は確かに緊張しますし、気を使いますね。もう戦いの渦中にいるわけですから。視線には入りにくいですけど、視線を撮った写真は良いものになる事が多いです。だから私は数秒だけ視線に入って2枚だけシャッターを切ります。「これだけごめんなさい」という気持ちで。阿吽の呼吸になっているかは分からないですけど。
野澤 北野さんはすごく繊細な質問をするときに、タイミングをどう捉えていますか? 印象に残っているのは、木村一基九段が初めてタイトルを取った時のことです。取材陣から一通りの質問が終わった後に北野さんが「ご家族にはどう伝えますか?」と、まるで背中に手を添えるような優しい声で聞いたんです。その瞬間、木村九段は歯を食いしばり涙を堪えました。
盤上に乱れたままの駒が残されていて…
北野 あの時のことは今でも時々思い出します。いい瞬間をみんなで共有したなあ、という記憶で、どこか励まされるような感覚があるんですね。『将棋世界』で書かせてもらった「木村の二十一秒」というドキュメントは、将棋記者としての自分のキャリアの中でも特別な原稿です。野澤さんの写真を使わせていただいたのも有り難かったです。
あの時、感想戦が始まってから両対局者が席を立って大盤解説場へ挨拶に行きましたよね。盤上に乱れたままの駒が残っていた。かなり珍しいことで、激闘のシリーズを象徴していたように見えました。私も一生懸命撮ったのですが、野澤さんが撮っておられたものを『将棋世界』に残すことができた。あれも嬉しかったですね。あれから7年になりますけど、あの王位戦のことは現代将棋においてとても大切なシーンになったと思います。
野澤 現場にいた誰もが、将棋界って素晴らしいと感じていましたよね。でもコロナ禍以降、雑誌媒体は取材・撮影する機会がずっと減ってしまいました。コロナ禍が終わってからも以前のように大勢の取材陣が入れる状況には戻らなかったですから。
今は取材陣が少なくなった
北野 個人的には、以前のように全ての報道陣を入れて取材をする態勢に戻せばいいのに、と思います。報道の数は目の前の出来事の大きさを計るバロメーターでもあるし、熱気から生み出されるものもあると思うので。
野澤 私がこれまでに強く記憶に残っているのは、佐々木勇気五段(当時)が藤井聡太四段(当時)の30連勝を阻んだ日の朝方です。対局相手に向けた佐々木五段の鬼気迫る眼光、その背後に藤井四段を狙うカメラマンたちがひしめいていた。対局者の殺気だけでなく、歴史的なシーンを捉えようとする報道陣の熱気も凄く、その雰囲気の中でこそ撮れた一枚でした。注目度の高い対局ほど制限が厳しい状況では、もうあのような写真は望めないです。
北野 そのような機会を失っていることは憂うべきことですね。
野澤 将棋界を長年撮られてきたカメラマンの弦巻勝さんと飲んだときに、やはり危惧されていました。将棋連盟は財産として残すべきものを失っていると。藤井六冠が出るタイトル戦でも、今は取材陣が少なくなりましたね。
森下ー増田の異様すぎる師弟関係
北野 『師弟 棋士の見る夢』を読ませていただいて「森下卓九段−増田康宏八段」師弟の章が特に印象に残りました。私の本は、順位戦を舞台に棋士の群像を“横軸”に広げていくもので、これまでの「師弟」シリーズも“横軸”を中心にした構成でしたが、今回の「森下九段−増田八段」は前作という過去と現在の関係を対比させる“縦軸”の視点になっていますよね。増田さんと森下さんの関係も変化していて、縦にいけば師弟関係もこのような面白みが出るんだなあ、と感じました。棋士はプレイヤーとしての期間が長いので、縦軸横軸の妙は常に興味深いです。
野澤 これまで19組の師弟を取材してきたのですが、8年前に最初に取材した「森下−増田」の章だけ異色作と言われていました。師匠にあからさまな反発を見せた弟子は、他にいなかったですから。森下九段の弟弟子である深浦康市九段にも「増田君のところだけ、他と違う(笑)」と言われたことがあります。シリーズで同じ師弟を取り上げたのは初めてで、やはり時間の経過がもたらした二人の関係性は感慨深かったです。
増田八段は素直な気持ちを言葉にしますが、同時にメディアや将棋ファンにそれが刺さることも、反動があることもわかっている。あまり態度には表しませんが、サービス精神がありますよね。将棋の才能という部分においても、藤井聡太六冠に劣らないものを持っていると思うんです。
北野 増田さんの面白さは、棋士らしい合理性を持ちながら、実のところ昭和的なヒューマニティーを持っているところだと思います。それが共存している人はそんなにいないと思うんですね。私は以前、彼の出身道場である「八王子将棋クラブ」の連載を『将棋世界』で行ったことがあって、増田さんのお母様にも話を伺いました。お母様の人柄に触れたことで、増田さんの素顔が少しずつ見えてきたような感覚がありました。
野澤 それは同感です。私も最初の取材の時に実家に伺わせてもらって、増田八段が殺風景な自分の部屋で、立ったままパソコンと向き合う姿を撮らせてもらいました。その時にお母様ともお話をさせてもらい、彼が家庭の暖かさ、愛情に包まれて育ったことを感じました。それが根本的な人間性を作っているから、明晰な頭脳でクールに見えても、根っこは人懐こいんだと思います。
その分、割り切りはあまり上手くないかもしれない。師匠の森下卓九段が「感情がなければ、最強の棋士になれる」というように、人間臭さは魅力であると同時に勝負においては弱点にもなりますからね。
私は年間40勝以上を達成した棋士は爆発力があるタイプと見ているんですけど、増田八段はまだその経験がない。才能への評価は高いけれど勢いで勝ちまくる印象がないのは、感情のコントロールにまだ課題を残しているからかもしれない。
増田八段は自分の才能を信じている
北野 現在はA級にいる順位戦でもC級2組で苦労されていました。重要なところで星を取りこぼしていたような印象もあります。
野澤 A級棋士やタイトル経験者と対戦すると、互角かそれ以上の成績を残せるのに、妙に予選で負ける。これは敢えて言いますけど、増田八段は自分の才能を信じていると思うんです。勝負師として必要なことですが、それがいつも良い方に出るとは限らない。森下九段が「棋士はトップと最下位でも、100m走にしたら0.2秒程度の差しかない」と言うように、ほんの僅かでも気持ちが緩めば斬られてしまうのだと思います。
北野 今回の『夜を戦う 純情順位戦』の中で書かせていただきましたが、個人的に増田さんの横顔でグッとくるのは、彼がアメリカのノンフィクションをたくさん読んでいる読書家であることです。デイヴィッド・ハルバースタムが好きなんですと明かされた時は、驚くと同時に嬉しかったです(笑)。1970年代のNBAについて書かれた『勝負の分かれ目』という作品があるのですが「最高です」と……。私が大学生の時にはすでに絶版で、古本屋で探し出して見つけたような本ですからね。
そして、彼は単に読書好きとして読んでいるのではなく、勝負に臨む上での教訓のようなものを学ぼうとしている。それで私が別の本もお勧めしたら実際に読んでくれたり。「あれはちょっと……北野さんは好きそうだなあと思いましたけど」と言うのも実に増田さんらしいというか(笑)。
順位戦を勝つことへの気持ちは別格
野澤 順位戦では今年もC級2組は最後まで目が離せませんでした。佐々木大地七段がついに昇級を果たしましたね。
北野 9期目のC2での昇級でした。
野澤 その間に8勝2敗が5回でしたか? タイトル戦の連続挑戦、年間最多勝と最多対局も達成している。以前に昇級を惜しくも逃したときに、本人から「他の棋戦で頑張ればいいんです」という言葉を聞いたことがありました。これは増田八段もC級2組のときに口にしたことがあります。でもその言葉の裏に、若い彼らの忸怩たる思いが滲んでいるのを感じました。棋士の本心として、順位戦を上がることへの気持ちは強いはずです。
北野 C級2組について言うと、五十数人が参加して3人しか上がれないわけですから、絶対的に険しいです。2敗したら難しくなります……と言いながらも、佐々木さんが今回上がったのも8勝2敗ですから、運命の妙としか言いようのないものもあるような気がしています。
野澤 これは師匠の深浦康市九段が指摘していたことですけど、ベテランと対戦するときに相手が昔から得意とする形で戦ってしまっている。作戦の立て方に問題があるから、星を落としてしまっているんじゃないかと。(つづく)
〈羽生善治が喫した“敗因不明”の負け、A級に上がれない強豪棋士のナゾ…将棋記者が考察する「なぜ順位戦ではドラマが起きるのか」〉へ続く
(野澤 亘伸,北野 新太)
