資産1億円でも「明日も出社します」…シン富裕層がFIREを完全スルーする納得のワケ
世界的な「カネ余り」時代の到来による日本株高などの結果、普通の会社員や公務員でありながら資産1億円を超えた「いつのまにか億リ人」たち。ネット上でもてはやされる「FIRE」の条件は十分に満たしているにもかかわらず、なぜ彼ら彼女らは働き続け、今まで通りに生活することを選ぶのか? 富裕層の実態に詳しく新著『超富裕層に「おもてなし」はいらない』(講談社+α新書)を上梓したマリブジャパン代表の高橋克英氏による「シン富裕層」の実態の続編。
辞める理由なし! 快適すぎる職場
都内のIT会社に勤めるAさん(43歳)は、京王線沿線に妻と小学生の子どもとの3人暮らし。子どもが生まれたのを機に将来の教育資金の足しになればと始めた日本株のインデックス投信の積立に加え、ボーナスの多くを個別株投資に充てることで、40歳を前に金融純資産が1億円を大きく超えてFIREできるほどになった。しかし、その後も変わらず家族みなでユニクロを着こなし、たまに同僚と赤提灯で飲むなど、今の会社で働き続けている。
「そもそも、今の職場って昔と違って快適なんですよ」Aさんは、笑顔でそう話す。
現在50代60代以上の昭和・平成のサラリーマンにとって、会社とは、毎日毎日満員電車に揺られ、ネクタイに背広、制服を着て、殺風景なオフィスで朝早くから夜遅くまで働く戦場。上司や取引先からの無理難題や今でいうパワハラやセクハラも日常茶飯事だった。しかし、令和の現在は、職場を取り巻く環境は、劇的に改善している。
Aさん曰く「今のオフィスでは、フリーアドレス制が導入され、ソファ席やハイカウンターの席などもあり、観葉植物やアート作品が置かれ、まるでカフェのような空間で快適です」。フレキシブルタイム制によって満員電車の苦痛からも解放され、週に数日は自宅勤務も可能。制服でもスーツでもなく、自由な格好でOKだという。
人間関係のストレスやパワハラやセクハラがなくなったわけではないものの、政府による働き方改革の推進もあり、以前に比べれば職場環境は改善してきているのも確かだ。
シン富裕層にとっても、昔よりもきつくない、ゆるい職場、居心地よいオフィスなので、わざわざ辞める理由がないのだ。
Aさんにとって会社に行くことはストレスでも苦役でもなく、適度な緊張感と快適なインフラが整った「サードプレイス」に近い場所なのだ。金融資産が1億円を超えたからといって、わざわざその居心地の良い場所を捨ててまでリタイアする必要が、見当たらないわけだ。
夢の生活…3ヵ月で飽きた理由
FIREを実現した成功者によるキラキラした動画配信などをみて、ネット上では毎日が夏休みのような生活への憧れや称賛のコメントが溢れかえったりしている。
もちろん、FIREした後も、新しいことにチャレンジしたり、国内外を旅行したりと満たされた充実した日々を送っている人もたくさんいるだろう。
しかしながら、FIREが必ずしも理想通りではなかった人もいる。都内で暮らすBさん(38歳)もその一人だ。新卒で入社した大手医薬品メーカーで研究者として働く傍ら、自らの高い信用力を活用し、銀行借入による不動産投資を開始。定期的な家賃収入に加え、不動産価格高騰に伴う売却益により、開始から10年足らずで金融資産1億円を超えたという。
このため、一旦は念願のFIREしたものの、「その夢のような生活に3ヵ月で飽きてしまった」という。働かなくなったことで、あまりにも暇で日々社会からの疎外感も感じたことから、再就職活動を経て1年後には、中堅医薬品メーカーに採用され今に至っている。
Bさん曰く「1億円というのは、もちろん大金です。しかし、365日、毎日高級外資系ホテルに泊まり、世界中をビジネスクラスで飛び回り、毎晩ミシュランの星付きレストランで食事をし続ける……というほどの圧倒的な富ではありません。それをやれば、あっという間に資産は底を突くでしょう」
「また、そもそも一緒に行動する彼女や彼氏、家族があってこそ旅行も食事も楽しいもの」なのに、普段は働いている彼女や友人とはなかなか時間も合わず、価値観もお互いにズレてきて、多くの友人・知人が離れていったという。
仮に365日、高級外資系ホテルに泊まり、世界中をビジネスクラスで旅し、ミシュランで毎日食事というほどの資産があったとしても、何事にも慣れてしまい飽きてしまうのが人間の性だ。毎日が夏休みや日曜日になれば、夏休みや日曜日のありがたみは消えてしまうわけだ。
孤独に耐えられず…再就職の壁
「一方で、会社という大きな組織に属していれば、個人の力では到底関わることもないようなグローバルなプロジェクトに関わることができたり、会社の名刺があるからこそ業界の著名人などにも会うことができる」「また、チームで業績目標を達成した際の一体感や高揚感は、何ものにも代えがたい」とBさんは言う。
もちろん、一度会社を辞めたら戻るのはハードルが高く大変、というのもある。Bさんも大手医薬品メーカーでの勤務実績があったものの、それでも、退職後のブランク期間を気にされてか、(まさかFIREして豪遊していたとも言えず)、何件もの“お祈りメール”を受け取り凹んだという。結局再就職できたのは、1年後だった。
Bさんのケースのように、実際にFIREしたものの、「退屈」と「孤独」に耐えきれず、結局は何らかの形で仕事に戻った人々の事例をSNSなどで見聞きすることで、シン富裕層は、FIREするよりも、仕事や会社はキープしたほうがいいと思うことになる。
資産1億でも暴落に怯える現実
シン富裕層の多くは、給与をコツコツ貯めたり節約することだけで1億円を築いたわけではない。
彼らが「億り人」になった最大の要因は、資産運用や不動産投資の成功だ。エヌビディアのようなAI銘柄の急騰、あるいはキオクシアのような半導体関連株の保有、はたまた都心の不動産価格の上昇。つまり、マーケットの「追い風」によって資産が膨らんだわけだ。
もっとも、金融マーケットや不動産マーケットで大きくリターンを得たということは、リスクほぼゼロの定期預金や国債に全残高がない限り、日々刻々と変化するマーケットにおいて、この先も地政学リスクや天変地異、金融危機などによって、今度は逆に大きく資産を減らす可能性もあるわけだ。もちろん、消費すればその分残高は減り、インフレが進めばその分目減りすることにもなる。
その時、もしFIRE達成と同時に意気揚々と早々に会社を辞めて無職になっていたらどうなるか。20代30代ならともかく、ミドル世代になってから、一度キャリアを断絶させれば、同じレベルの給与や条件で再就職するのは簡単ではない。
シン富裕層は、今の自分がマーケット環境に助けられてシン富裕層になれたということを冷静に自覚している。だからこそ、最悪の事態に備えて、キャッシュフローを生む「給与所得」を得るため働き続けることを選択しているのだ。
働く目的は「メンタルの安定」
シン富裕層は、上司に理不尽なことを言われても、心の中で「まあ、俺は1億あるしな。最悪いつでも辞められるし」と余裕を持って受け流せる。この「いつでも辞められる」という状態で働くことは、心の安定や不安からの解放、という点からも、実はとても大切なことだ。
話は少しそれるが、パワハラやセクハラにモラハラなど社内でのハラスメントがなくならないのは、職場を簡単には辞められないことが背景にあるといえる。転職市場など労働流動性の創出こそ、賃金引上げや労働生産性の向上、職場環境の改善を含め、最も重要な施策のはずである。
皮肉なことに、お金のために働かなくて良くなった人が、組織のなかでもあくせくせず、ゆとりをもって公平かつ自然体で日々業務をこなすことで、良好な人間関係や評価を生み、職場がますます居心地よくなっていく……。シン富裕層は、そんなポジティブなループの中にいたりするのだ。
1億円あっても「明日も出社」
シン富裕層の彼ら彼女にとって金融資産1億円とは、贅沢をするための「軍資金」ではなく、精神的な自由を確保するための「安全保障」なのかもしれない。「いつでも仕事を辞められる」「老後の心配がない」と思えることが大切なのだ。
「明日も、普通に出社しますよ。オフィスの居心地はいいし、帰りに仲間と飲むビールが旨いですから」そう笑って語るAさんや「会社での研究開発は充実している」と話すBさんの笑顔が、FIREしないシン富裕層を象徴しているのかもしれない。
取材・文:高橋克英(たかはし・かつひで)
株式会社マリブジャパン代表取締役、事業構想大学院大学特任教授 1969年、岐阜県生まれ。三菱銀行、シティグループ証券、シティバンクなどを経て、2013年に同社を設立。世界60カ国以上を訪問。バハマ、モルディブ、パラオ、マリブ、ロスカボス、ドバイ、ハワイ、ニセコ、京都、沖縄など国内外リゾート地にも詳しい。映画「スター・ウォーズ」の著名コレクターでもある。1993年慶應義塾大学経済学部卒、2000年青山学院大学大学院 国際政治経済学研究科経済学修士。著書に『銀行ゼロ時代』(朝日新聞出版)、『なぜニセコだけが世界リゾートになったのか』(講談社+α新書)、『地銀消滅』(平凡社)、『超富裕層に「おもてなし」はいらない』(講談社+α新書)、など多数。
