「審判には紳士的だったよ」と話す森本が、一度だけ食らった退場処分【元阪急ブレーブス森本潔 異端児と勇者たちの残響】#20
【元阪急ブレーブス森本潔 異端児と勇者たちの残響】#20
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前身となる阪急軍から数え、今年で球団創設90周年を迎えた阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)。当時のパを代表する名手を幾人も輩出する中、ひときわ異彩を放っていたのが森本潔だ。球界から突如消えた反骨の打者の足跡と今を、ノンフィクションライターの中村素至氏が追った。(毎週木曜掲載)
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4度目の挑戦も空しく、巨人に敗れ去った1971年の日本シリーズ。後楽園球場で川上哲治監督の胴上げがあった第5戦、三回裏、巨人・柴田勲の三盗の判定に対して森本が塁審に抗議する映像が残されている。テレビ中継の解説者・三原脩(当時ヤクルトアトムズ監督)までが、「あれは審判のミス。森本がタッチするところを肩越しに見ていたから。立つ位置が悪い」と指摘したが、いわゆる「巨人贔屓」の判定はあったのだろうか。
「俺自身は気にならなかったね。審判に対しても俺は紳士的なほうだったよ」と語る森本だが、現役時代一度だけ判定を巡って退場に至った記録が残されている。
69年10月15日、対ロッテ最終戦。四回表、2死一、二塁で阪急・大熊忠義のゴロを捕ったロッテ有藤道世三塁手の二塁送球が逸れ、一塁走者の森本が滑り込んだ。セーフのように見えたが判定はアウト。森本は塁審を突き飛ばし、退場処分となった。
阪急・西本幸雄監督は、このシリーズ終了後、球団に辞意を申し入れた。しかし、森薫オーナーは慰留に努め、現場の代表として上田利治コーチも思いとどまるよう西本を説得した。結局、辞意を撤回した西本は、チーム改造に着手する。71年12月、内野の要として熱望していた東映フライヤーズの遊撃手・大橋穣を獲得するため、大型トレードを断行。東映と阪急の間で正遊撃手・正捕手がそのまま入れ替わる異例の同一ポジションのトレードとなった。さらに、内野守備コーチとして阪神のコーチだった本屋敷錦吾(立大-阪急-阪神)を招聘。チーム再建が始動した。
翌72年、森本は初の開幕戦4番打者としてスタメン出場。主砲の長池徳士がオープン戦で左足首を故障したためだったが、4打数2安打と結果を残した。チームは開幕6連勝と好調なスタート。この年は長池のスタメン復帰後もしばしば4番を打つことになる。
6月13日、小倉球場で行われた西鉄ライオンズ戦。この試合でも4番を打ち、対戦相手の東尾修投手から2安打をマークしたが、0−2で完封負けを喫した。東尾はシュート、スライダーと横の揺さぶりで攻める技巧派投手。
「東尾のピッチングは同じ西鉄にいた池永正明のスタイルを踏襲したものだった。俺としては池永のほうが苦手だった。よく詰まらせられたよ。あいつはね、打者の頭付近にめがけて危ないボールを平気で投げて、その打者が睨んだりすると『文句あるか』とマウンドから向かってくるような奴だった。いい度胸していたよ。『黒い霧事件』で永久追放された後、博多でバーをやっていたけど、その店に飲みに行ったこともあるよ」
現在の危険球一発退場ルールからすれば、こうしたスタイルの投球術はまず無理だろう。
西鉄の本拠地球場だった平和台や小倉は気の荒い観客が多いことでも有名だった。「昔のプロ野球は鳴り物応援もほとんどなく、静かでよかった」と美化されがちだが、一方で観客のマナーについては、観客席から酒瓶が飛んできたり、汚いヤジがあったり、女性客などが入りにくい雰囲気があったことも事実だ。「ガラの悪い観客がいるから子どもをプロ野球の試合には連れて行かない」という方針の家庭さえあったという。この試合の終了後、ある事件に森本が巻き込まれることになる。(つづく)
(中村素至/ノンフィクションライター)
