「父には5つの家庭がありました」梅沢富美男の妻が、倒れた父から託された「愛人への送金リスト」
「各地の女性たちに、お金を届けてほしい」。倒れた父が震える手で娘に託したのは、数人の愛人への「送金リスト」だった。俳優・梅沢富美男さんの妻、池田明子さん。置屋で育ち、5つの家庭を持つ父の看取り、さらには巨額の負債を背負うなど、その半生は「逃げ出したい現実」の連続でした。なぜ彼女は、降りかかる理不尽を「面白がること」ができたのか。世間の「正論」に縛られず、目の前の重荷を自分の強さに変えてきた池田さんの原点。それは、正解のない毎日をしなやかに生き抜くための、知的な覚悟に満ちていました。
【写真】「丸眼鏡にオールバック」愛人への送金を頼んだ父と幼い池田さん(4枚目/全11枚)
5つの家庭を持つ父、置屋に響いた「火打ち石」の音
── 芸者だったお母さんのもと、置屋で生まれ育ったそうですね。
池田さん:幼少期はとても賑やかでした。置屋では住み込みのお姉さんたちが大勢いて、出勤するときには祖母が清めのための火打ち石を「パンパンっ」と打って送り出す。そんな光景を今でも覚えています。母が置屋を経営するようになったのは、父と出会ったのがきっかけでしたが、その父が、今思うと常人離れした人で…。
── お父さんは既婚者でいらっしゃったとか。
池田さん:第二次世界大戦ではビルマ戦線に召集され、命からがら生還した経験のせいか、どこか超越しているというか。少し変わった人だったんです。
母と一緒になった当時、本妻を合わせてすでに3つの家庭を持っていましたので、母は未婚のまま私を産み育てました。父は地方での仕事が増えるたびに、現地でも家庭を築いていたようです。最終的には、4つか5つの家庭があったと思います。当然、父と一緒に住むことはできませんでしたが、頻繁に会いに来てくれました。
── そうした境遇から、小学校ではいじめに遭うなど、つらい経験をされたそうですね。
池田さん:いじめっ子から「芸者の子!」とからかわれることはありましたが、不思議と寂しくはなかったんです。実はほどなくして、母が養父となる別の男性と結婚しました。大学の講師を務める良い方で、「これからは女性でも国家資格があったほうがいい」と私に勧めてくれて。おかげで臨床検査技師を目指し、大学に進学できました。
── 順風満帆のように聞こえます。
池田さん:ところがまた紆余曲折があり、母と養父がうまくいかなくなって離婚することに。学費の支払いに困難が生じました。そんなとき、芸者をしていた叔母のもとに父がたまたま訪れたんです。「明子はどうしてる?」と聞かれた叔母が事情を話すと、父が私の学費を援助してくれるようになりました。
倒れた父が震える手で書いた「愛人への送金リスト」
── その後、臨床検査技師の資格を取得。しかしお父さんの建設会社で働くようになったことが人生の転機になったそうですね。
池田さん:父があまりにもワンマン気質で、事務や経理の人が居つかなかったんです。「これだけ給料を払うから、来ないか?」と私に白羽の矢が立って(笑)。2年勤めた病院を辞めて父の会社に入りました。父とはその後も晩年まで縁がつながり、結局、最期を看取るまでそばにいました。
── お父さんは晩年も女性関係が華やかだったのですか?
池田さん:すごかったですよ(笑)。父が80歳で脳溢血で倒れたのも、私より若い女性の家でした。病床の父に呼ばれて行くと、口はまだ回らないのに「書くものよこせ」って身振り手振りで言ってくるんです。震える手で紙に書いたのは、各地にいる女性たちへの送金指示でした。「どこどこにいくら持って行ってくれ」って。
── 娘である池田さんに、愛人への送金を託したのですか?
池田さん:そうです。「本当に面白い人だな」と思いましたね(笑)。女性たちだけでなく、私の他にもいた6人の子どもたちと本妻にも、お金を割り振りする手続きを私がやりました。その後、父は半身不随になって会社の経営が難しくなると、父の代わりに私が会社を陰ながら支えるようになりました。
梅沢富美男が「俺なら逃げ出す」と驚いた、数百億円の借入金
── 20代で、いきなり数百億円規模のプロジェクトや負債を動かす立場になったのですね。
池田さん:本妻には養子である長男がいて、その方とも一緒に働いていました。とても優しい方で一生懸命でしたが、父が倒れたときに「あきちゃん、僕の給料はどこから出るの?」とおっしゃって…。本来なら長男であるその方に頼れると良かったのですが、そこで初めて「これは私が腹をくくるしかない」と覚悟しました。
当時、父はデベロッパーとしてマンションを建設していて、動かすお金も、銀行からの借入金も膨大でした。後にそれを知った夫(梅沢富美男さん)からは「すごい額を借りてるんだね。俺だったら追いつめられるかもしれない」と言われましたね。
父が亡くなってからは私が会社を縮小して、なんとか社員にきちんとお給料を払えるようにしました。父が倒れたときに一緒にいた女性も「行くところがない」というので、しばらくは雇っていましたね。最終的には大手の商社に今でいうM&Aというかたちで引き継がれ、社員もそちらの会社に移ることができ、私自身は身を引きました。
「養われたい」と思っていたのに、「支える」側へ
── 現在は植物療法やハンドケアのスクールを経営されていますが、仕事の面白さに目覚めたのはお父さんの会社での経験からですか?
池田さん:そうですね。実は若いころは、「働きたくないから早く結婚をしたい。誰かに食べさせてもらって家庭を守りたい」と思っていたんです。母や叔母が私に対して日頃そのように言っていたことも影響したのかもしれません。ところが、思いがけず父の代わりに会社を動かす経験をするうちに、その価値観がガラリと変わりました。「仕事って面白いな」と。
── 梅沢富美男さんとの出会いも、お父さまとの縁だったそうですね。
池田さん:最初の出会いは夫の舞台を友人と観に行ったときでした。大衆演劇は「送り出し」と言って、終演後のロビーで役者がお客さんのお見送りをする習慣があるんです。そこで夫に当時、父が経営していた自由が丘の飲食店の話をすると、後日、本当に来てくれて。そこから私たちと交流を持つように。夫の曲「夢芝居」がヒットしたときには、父が「富美男くん、うちのお店を使っていいよ」と、経営していたクラブでレコード会社の方を招いたパーティーを開くなどしていましたね。
── ということは、出会いからほどなくして交際へ?
池田さん: いえ、当時は仕事を手伝う「知人」でした。夫は30代で売れに売れていましたが、実は「税金」というものをよく知らなくて(笑)。突然、入ってきた大きな収入を全部使ってしまい、翌年の納税額に驚いたそうです。知人の税理士さんから「経理が得意なら手伝ってあげて」と提案され、経費精算や事務所設立、果ては前妻との離婚慰謝料の手続きまで私がやることになりました。
── 慰謝料の手続きまで。そんな相手と、後に夫婦になると思っていましたか?
池田さん:思わなかったですね。20代のころは結婚願望がありましたが、30代になっていた当時は結婚して子どもを産むことになるなんてまったく思っていませんでした。母からも「子どもを持たない苦労もあるけれど、子どもを持つことも苦労になる」と言われていましたしね。
── そんななか、34歳でご結婚されます。
池田さん:経理などの事務だけでなく、海外ロケなどの仕事に同行するようになりました。あるときのスペインでのロケの帰り道、トラブルで夫と私だけで帰国しなければならないことがありました。しかも渡されたチケットは乗り継ぎ便で、経由地はモスクワ。乗り継ぎ時間もギリギリで。飛行機嫌いの夫が「生きた心地がしない…」とパニックになるなか、私が夫の手をひき、なんとか日本行きの飛行機に間に合わせたんです。
夫は私のことを「頼りになる」って確信したんでしょうね。後日、別の飛行機に乗っているときに、「結婚しない?」って言われました。
──「頼もしさ」がプロポーズに繋がったのですね。当時から梅沢さんは人気で、恋も多い方だったと思います。不安はなかったですか?
池田さん:不安はありましたよ。「多分、浮気はするんだろうなぁ」というのは思っていました。それでも、「人生で結婚するという機会があるなら、選んでみようかな」と思い、決めたんです。
…
5つの家庭を持つ父、愛人への送金、そして巨額の借入金…。次々に降りかかる「想定外の重荷」を、池田さんは絶望するのではなく、淡々と、時に面白がりながら自分の力に変えてきました。
もしあなたがいま、逃げ出したいような理不尽や、誰かに頼られすぎる重圧の中にいるとしたら。その「重荷」の先に、自分でも気づかなかった「新しい自分」が待っているのかもしれません。あなたは今、背負っているものをどう感じていますか?
取材・文:石野志帆 写真:池田明子

