フリーアナウンサー・神田愛花『東日本大震災と私』

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″報道″の最前線で

15年前の3月11日14時46分。私は渋谷にあるNHK放送センターのアナウンス室にいた。お茶でも汲もうと、給茶機のボタンを押した。お茶が出始めコップ半分くらいまで溜まった時、グラッ!! と大きく揺れた。

すぐさま(地震だ!)と思った。お茶がこぼれないよう、咄嗟にコップを手で押さえた。大きな揺れが収まらず、こぼれ出るお茶が手にかかり続け、(尋常じゃない! 電話しなきゃ!)と思った。

受信料で成り立っているNHKには災害時、放送を通じて国民の生命と財産を守るという使命がある。そのため緊急報道の最前線に立つアナウンサーたちは日々、様々な状況を想定した訓練をしている。かつ、私は初任地の福岡で、最大震度6弱の福岡県西方沖地震を経験していた。なので、この揺れがとてつもなく大きな地震であり、まもなく固定電話や携帯電話が繋がりにくくなること、また災害報道の対応で夜は帰宅できない可能性があること、そして自宅(実家)マンションのエレベーターが止まるかもしれないことなどを、予想することができた。

揺れが収まると同時に、一目散に電話機に向かい、猛スピードで実家の電話番号を押すと、呼び出し音が鳴った。(お母さん頼むから出て!)と願った時、「愛ちゃん!?」と普段よりも緊迫した母の声が聞こえた。私から電話が来ると思い、待機していたそうだ。私は一方的に「生きてるね? 私も大丈夫だから! しばらく連絡つかなくなるけれど心配しないで。なんとか生き延びるんだよ!」と早口で伝えると、「はい! 気を付けて!」と母が答えたので、受話器を置いた。

すると先輩が小走りでやって来た。電話を譲ったがもう繋がらず、先輩は翌日までご家族の安否がわからなかった。数秒の差だった。

たちまちアナウンス室は大会議室と化した。大きなホワイトボードが2台運び込まれ、共用の大テーブルは集まったアナウンサーたちで満席に。誰が決めるでもなく、被災地まで辿り着ける遮断されていないルートを調べる人、現地局に応援に向かう身支度を始める人にわかれた。上司の指示の声が響き渡る。詳しい情報がまだ入ってきていないにもかかわらず、全員が未曾有の災害という認識で、報道が長期間に及ぶことを覚悟していた。そして皆、(頼むから″最悪の事態″にはならないで……)と願っていた。初めて経験する異様な空気だった。

私は担当番組の制作室に移動し、翌日予定されていた収録の対応について話をしていた。その最中″最悪の事態″がテレビに映し出された。津波だった。

一瞬で奪われた日常

ニュースセンターには空撮映像がどんどん届いた。そこには、走っている車が真っ黒な水に飲み込まれていく様子。瓦礫を巻き込みながら進む津波の中、板にしがみつき助けを求めている人が力尽きてしまう様子。さらには波が引いた後の浜辺に、無数の亡くなられた方々の姿が映り込んでいたそうだ。映像を編集した編集スタッフは、その後何人も心の病を患ったと聞いている。

地震発生から数時間後。震災に関する番組以外はしばらく休止になることが決定した。私は翌日から教育テレビで、″安否情報″を担当した。連絡のつかない方に向けた、安否を確認し合うための放送だ。「◯◯の××さんから、■■の△△さんへ。心配しています、連絡ください」というようなメッセージを何時間も読み続けた。読んでいる最中、泣きそうになった。突然日常を奪われた方々の困惑や悲しみや底知れぬ不安が、メッセージからもろに伝わってきたからだ。(こんなことがあっていいのか!)と悔しくて震えた。

その翌年、私はNHKを辞めた。明日生きていられることが当たり前ではないと気付いてしまった以上、一秒でも早く、自分の人生の目標に向けて動き出さなければならないと思ったからだ。私は幸運なことに生かされている。ならばそうしないと無責任だ、という考えに至った。

東日本大震災から15年。被災した方々にとって、震災はまだ終わっていない。あの頃と違う住み処、変わってしまった生活、二度と帰ってこない家族、決して消えない悲しみ。私は皆さんから、命の儚さを教えていただいた。そのことを決して忘れず、これからも一分一秒を大切に生きていきたいと思う。

かんだ・あいか/1980年、神奈川県出身。学習院大学理学部数学科を卒業後、2003年、NHKにアナウンサーとして入局。2012年にNHKを退職し、フリーアナウンサーに。以降、バラエティ番組を中心に活躍し、現在、昼の帯番組『ぽかぽか』(フジテレビ系)にメインMCとしてレギュラー出演中

『FRIDAY』2026年3月27・4月3日合併号より

イラスト・文:神田愛花