『徹子の部屋』に野口五郎さんが登場。母への後悔を語る「コンサートの初日に逝った母。〈伝えるのはすべて終わってからにして〉という僕との約束を守った妻に伝えた言葉は…」
2026年3月6日の『徹子の部屋』に野口五郎さんが登場。昨年亡くした最愛の母の思い出や、ある後悔などについて語ります。今回は野口さんがこれまでの歩みや、コンサート中に亡くなった母への思いを語った『婦人公論』2025年6月号の記事を再配信します。*****「新御三家」と呼ばれ、数々のヒット曲を放った野口五郎さんは、半世紀以上活躍を続けてきました。音楽にかける情熱はとどまることを知らず、分野の垣根を飛び越えた、その先の興味について熱く語ります(構成:平林理恵 撮影:宮崎貢司)
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<前編よりつづく>
スター世代の末っ子、アイドル世代の長男
13歳で上京し、15歳のときに演歌でデビュー。業界の中で大小さまざまな荒波を乗り越えながら、いつも今よりも「その先」を必死で追い求めてきました。
僕がデビューした1971年は、「スターの時代」。業界には五木ひろしさんや森進一さんなどの実力派の先輩がたくさんいらっしゃいました。みなさん、レッスンを積み、苦労を重ねてデビューされた方ばかり。僕はそんな「スターの時代」の末っ子として、全国のキャバレーを回り、酔客の前で前座として歌うという下積みを経験しました。
まだオーディション番組『スター誕生!』が始まる前のことです。その後、僕の翌年に、西城秀樹と郷ひろみがデビューするや、時代は「スター」から「アイドル」へと移っていく。麻丘めぐみちゃんが「芽ばえ」で、森昌子ちゃんが「せんせい」でデビューしたのもこの年です。
秀樹とひろみと僕は「新御三家」と呼ばれるようになり、3人とも同い年ですが、デビューの早い僕が長男的な立ち位置に。スター世代の末っ子が、アイドル世代の長男となったわけです。
その時代を僕らはアイドルとして駆け抜けました。1週間に50本も歌番組があったので、彼らと会わない日はありません。だから普通に友達同士だったし、周囲の思惑はさておき、ライバル意識はさほど強くなかった。
16歳の子どもでしたが、自分だけの椅子を作らなきゃいけない、そうしないと存在を認めてもらえない、ということは十分わかっていました。だから、僕らはアイドルという1つの椅子に3人で座ろうとしていたのではなく、目指すところに自分の椅子を作ることに必死だった。ワイルドで男らしい秀樹、美しくて可愛いひろみ、そんな2人に囲まれた野口五郎としては、ちゃんと歌を歌っていこう、と。
葛藤はもちろんありました。演歌ではフリをつけて歌うもんじゃないと厳しく言われて育ったのに、ジェスチャーみたいな表現を求められる。その中で自分はどう表現していくべきなのか……。想像をはるかに超えたアイドルブームに、戸惑っていたのかもしれませんね。

「僕が初めてお芝居の舞台に立ったのは、83年に帝国劇場で上演された『ロミオとジュリエット』」
われながら当時から人よりも抜き出ていると自負するのは、海外音楽の知識量です。輸入盤を聴きまくり、海外のミュージシャン同士の相性まで把握していた16歳の頃から、海外でレコーディングをしたいと周囲に話していました。そして17歳でそれが叶ったときは嬉しかった。
何をやっても「初めて」や「最年少」がついて回りましたが、ワクワクしながら新しい経験をたくさんさせていただきました。
僕が初めてお芝居の舞台に立ったのは、83年に帝国劇場で上演された『ロミオとジュリエット』。その後87年にミュージカル『レ・ミゼラブル』が日本で初演されるのですが、このときマリウス役をいただき、結果的に91年まで5年間、演じることになりました。
実は、「ロミジュリ」の演出家マイケル・ボグダノフが、「レミゼ」を演出するジョン・ケアードに僕のことを話してくれたらしく、「オーディションを受けてみませんか?」という連絡をいただいたんです。
僕は何も知らないまま、テーマ曲の譜面だけを持ってオーディション会場に行きました。ところがもう1曲、自由曲を歌わなければならなかった。前の人が歌った曲の楽譜が譜面台に残っていたので、やむなくそれを歌ったんです。女性のキーでしたがそのまま(笑)。運良く合格できました。
「レミゼ」は日本初演だったので、緊張の連続。そのうえ、めちゃくちゃ体力を消耗する舞台だった。でも出演者同士で切磋琢磨するなか、発声法を徹底的に考えたり、教えていただいたり。苦しかったけれども、とても学びのある経験ができました。
嬉しかったのは、一昨年、ミュージカル俳優の中川晃教くんに会ったとき、彼が「五郎さんがやっていらした発声法を、僕たちは受け継いでいるんです」と言ってくれたこと。僕がマリウスを演じたのは三十数年前。なのに今も引き続がれているんだ、と感激してしまいました。
デビューしてから、音楽だけでなく映画やドラマ、舞台ばかりかテレビのバラエティもやらせていただきました。「ハナ肇とクレージーキャッツ」にしても「ザ・ドリフターズ」にしてもあの時代の先輩方はすごかった。楽器の演奏も歌も一流。
16歳のときハナ肇さんから、「泣いている人を笑顔にしたり、ケンカしている人を止めたりできるのが、エンターテイナーなんだよ」と教わりました。笑われるのではなく、「笑わせる」。そためには何よりも間合いが大切で、タイミングは一瞬しかない。「そうか、コントは音楽なんだ」と、気づいたことが、今の僕の糧になっています。
妻は僕に黙っていてくれた
先日、上京したときから、ずっと支えてくれていた母が息を引き取りました。それも、2日間にわたるバースデーコンサート初日の2月18日。とても偶然とは思えないんです。
実は、母は昨年の12月頃から体調が思わしくなく、入退院を繰り返していました。おふくろが行きたい場所に連れて行き、できるだけ一緒に過ごすようにして。僕が両方のほっぺにチュッチュなんてすると、ものすごく喜んで、なんだか面白い顔で笑うんですよ。
おふくろが好きな古い歌を一緒に歌ったりね。そうこうしているうちに食欲も少しずつ戻ってきて、僕は少し安心していました。
それでコンサートの前夜、妻(タレントの三井ゆりさん)にこう言ったんです。「もし母親に何かあったとしても、僕には伝えないで。コンサートがすべて終わってからにして」と。
もともと僕と母親との間には、「この仕事をしていたら、最期は会えないこともあるよね」という暗黙の了解がありました。
「中途半端に母親のことを思いながら歌うコンサートなんてありえない。ステージに立つときはまっさらな自分でいたいから、言わないでね」。夜ベッドに入るときに、自分の言葉を振り返りつつ、「なんで僕はこんなこと言ったのかな?」とは思っていました。
母が旅立ったのは、翌日、コンサートが始まる2時間前のことだったそうです。僕は無事に初日を終えて帰宅。この夜、成人した息子と初めて一緒に酒を飲み、ちょっと人生哲学的な話をしながら、生意気なこと言うようになったな、なんて思ってね。娘もいつもと変わらず「おやすみ」と。
振り返ると、2日目は「なんだか妙に声が出るな」と自分に驚いていました。それに最後の曲を歌い終わったあとも、終わりたくないなと思ってしまって、アンコール曲を歌い出すまでの間がいつになく長かったんです。
それで楽屋に戻ったときに、妻から「実は昨日……」と聞かされました。一人でさぞ大変だったろうに、「よくぞ僕をだましてくれた」と、家族には感謝しかありません。
実は妻は、「本当に黙っていていいんでしょうか」と兄貴に聞きに行ったそうです。兄貴は「あの2人は一卵性親子だから、『何があっても僕に伝えるな』は、お袋が言わせているんだと思う。だからその約束を守ってやってくれ」と。「あの言葉で私も覚悟が決まった」と後日、話してくれました。
今思えば、母はきっと会場に来てくれていたんでしょうね。スタッフに挨拶をして、ファンの方々に感謝して、初日のコンサートを見て、翌日も楽しんで。
でもアンコールになったら終わってほしくないという気持ちが高まってちょっとだけ引き延ばした。それで僕の歌を全部聞いてから旅立っていった、そんなふうに思えてならないんですよ。
