『春日局』撮影で

 1989年1月。将来有望な人気俳優が、この世を去った。高橋良明(享年16)。大河ドラマにも出演、主演ドラマも大ヒット、歌手としても80万枚以上の売上を叩き出す。まさに男性トップアイドルだった彼が、突然のバイク事故で命を落とすとは誰も思わなかった。

 「原付免許で中型バイクを運転していたこと、横断者をハネた(被害者は全治2ヶ月の骨折)ことなどで、当時は大騒ぎになりました。事故を起こしたのは1月5日に。頭部外傷で意識不明の重症でしたが、4日後には会話ができるまでに回復。しかし、22日に容体が急変し、翌23日に亡くなったのです。死因は頭部打撲による小脳くも膜下出血及び中脳出血。葬儀には5000人ともいわれるファンが集まりました」(週刊誌記者)

 彼の眠る墓の前には、今でもファンからの献花が絶えない。

 彼が生きていれば、9月2日で50歳になるはずだった。真っ青に晴れた9月4日の日曜日。没後34年を迎える高橋良明の菩提寺、新横浜の観音寺で、母である郄橋凉子さんにお話を伺うことができた。

「芸能界にはね、自分で行くって言い出したんですよ。私は本音は反対だったけど…子供がやりたいっていうことだからね。一応やってみて、それから続けるか決めようよって話したんですけど。それで東京宝映に行ったんだけど、行きたい人は全部受かるところなのよ(笑)。でも、事務所に入ったらトントン拍子にオーディションが入ってきて…、あっという間に仕事が増えてね」

 1985年、12歳でポーラテレビ小説「夢かける女」(TBS)に出演、松原千明の子供役で注目され「そこからは、オーディションは90%は通ってましたね」と凉子さん。そして、一気に人気を伸ばすきっかけとなる『うちの子にかぎって2』(TBS)への出演につながっていく。

「あのオーディション、最初は落ちたんですよね。配役を見直すってことで再度選考があって、そこで受かったのかな。あれで一気に顔が売れちて、原宿を一緒に歩いてると黒山の人だかりになっちゃうくらい。ファンの子達から逃げ回って、ジーパン屋の地下に隠れさせてもらったわね(笑)」

担当マネージャーが語る人気ぶり
「原宿で暴動が起きたのかと」

 当時の担当マネージャーであり、『高橋良明WebSite』の管理人・池田秀一さんも、思い出を語ってくれた。

「原宿中の人が気づいたんじゃないかって思うほど、たくさんの人が追っかけてきたんです。原宿のムラサキスポーツ前で、暴動が起こったような騒ぎになってしまいました」

 中学卒業後は、明大中野高校へ入学。

「芸能活動のできる明大中野に行ったけど、頭は弱いのよ(笑)。でもね、芸能界に入る前の小学生の時は、算数でも国語でも90点以下を取ったことなかった。役者を始めてから成績が急降下して、オール1だったことも(笑)。だって、学校行ってないんだもの。算数が得意だったのは、うちは商売(鮮魚店)をやっていて、良明は小さい頃からお店を手伝っていたから、お釣りの計算で暗算が鍛えられていたのね」(凉子さん)

 地頭の良さは、仕事にも活かされていたと池田さんは言う。

「人の名前を忘れないんですよね。仕事先で名刺交換をしても僕は忘れちゃうのに、良明はもらってないのにしっかり名前を覚えてるんですよ」。

 1987年には『オヨビでない奴!』(TBS)で連ドラ初主演。植木等、所ジョージと共演し、後継者とも目された。89年にはNHK大河ドラマ『春日局』に出演。まさに順風満帆だった。

「春日局のときは、長いセリフがあってねえ。『お母さん、相手役やって』っていうから、私が佐久間良子さんのセリフを一緒に練習したのよ。亡くなってからドラマの打ち上げで佐久間さんに会ったとき、どっかの飲み屋さんかな。その時のプロデューサーさんが『良明のお母さんですよ』って紹介してくれて。そしたら、すごい大泣きしちゃってね。自分の子供も同じくらいの年だったから、接し方を良明に聞いてたって。先輩から可愛がられてたわね」(涼子さん)

 家族との仲が良く、横浜市の実家に住んでいた良明は、ロケ先などから必ず電話を入れていたという。

「ロケ先に着いたら電話、帰るときも電話。それは必ずでしたね。嫌なこともあったらしくて、共演者の大物俳優がセリフ間違っちゃうと、何度も注意できないじゃないですか。そうすると、あるプロテューサーは良明に当たるらしいんですよ。『僕の顔に台本を投げてくるんだ』って。電話してきて泣いてるから、聞いたらそういうことがあったって。それをやられて黙って帰ってくるアンタのほうが大人なんだから、その人は子供なのよって言いましたね」(涼子さん)

後藤久美子と深夜の長電話

 芸能界では『うちの子にかぎって2』の共演者とは仲がよく、しょっちゅう自宅に招いて一緒に遊んでいたという。

「学校の友達も、役者仲間も一緒になって遊んでたね。あと親しくしてたのは……後藤久美子ちゃんと仲良かったわね。家に電話かかってきてね、「もしもし、良明くんいますか?」って。そういう電話はよくかかってきてたから『ごめんなさいね、今、仕事で家にいないんですよ』って応えたんだけど、向こうは良明が家にいることを事前に聞いてたんだね(笑)。『あの、後藤からの電話だって言ってください』『後藤さん?』『後藤久美子です』で慌てて取り次いだわよ(笑)。それで代わったら、1時間も2時間も喋ってる。夜遅いときなんかは『もう、遅いから切りなさいよ』って言うと、良明が電話の向こうの久美子ちゃんに『もう疲れたろ?』なんて言ってんのよ。それで、受話器を塞いでこっち見て『お母さん、疲れてないってよ』って(笑)。ジャン・アレジも茶目っ気たっぷりって印象だから、ちょっと良明に似てるわよね」

 多くの人に愛された高橋良明。生きて役者を続けていれば、渋い、いい味を出す演技をしていたかもしれない。しかし、凉子さんは少しだけ後悔しているという。

「今更だけど、芸能界入れないほうが良かったかなとも思ったりするよね。あんなに忙しく仕事しないで、普通の学生で遊んでれば無茶なこともしなかったのかな…。ありがたいなと思うのは、今年で亡くなって34年、今でも誕生祝いとか、お墓参りにもいまだに来てくれるしね。ファンの方はいろんな世代の人が来てくれるの。忘れないでいてくれるのは、嬉しいね。

 今も生きてたら、役者かな…でもスパッとやめて魚屋になってたかもしれないし。好きだったからね、お店の仕事…魚屋の仕事もうまかったのよ。魚のパック作るのも早くてね。親父に怒られても泣きながらやってたなあ。ゴムの前掛け掛けてね、魚のドリップ(体液)が出てると『お父さん、ドリップ出てるから変えようよ』ってケースをきれいに洗って…近所にあったスーパーのお休みの時間を聞いてきてね、『何曜日が休みだから、仕入れを増やそうよ』とかさ(笑)。あの子は魚屋になっても良かったと思うんだけどね。まあ、やりたいようにやって、パッといなくなっちゃった感じなのよね」

 高橋良明は、17年の人生を、濃厚に、目一杯生きた。後から思えば、生き急いでいるのではないかと感じるほどに。そして伝説となり、今も多くのファンに慕われている。