菅原道真はなぜ「学問の神様」になったのか。それは太宰府で失意のうちに道真が死んでから、朝廷で怪死事件が頻発したからだ。その極みは大納言民部卿の藤原清貫ら7人が落雷で死亡する「清涼殿落雷事件」。醍醐天皇は道真の祟りを解くため、京都に北野天満宮を建て、神として祀った――。

※本稿は、山本博文『東大流「元号」でつかむ日本史』(河出新書)の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/winhorse)

菅原道真が祀られた理由は「権力争い」

天神様、学問の神様として現代も多くの人々に参拝されている「菅原道真公」。才気あふれる学者であり政治家であった道真は、なぜ祀られるようになったのでしょうか。その理由もこの時代の権力争いにありました。

延喜・延長と、二つの元号の時代にわたって当時の人々を震撼させた、その呪いの背景を探っていくこととしましょう。

清和天皇から譲位された、まだ幼い陽成天皇の摂政を行ったのは藤原基経(良房の養嗣子)でした。しかし陽成天皇は、乱暴な人で、元慶7年(883)に清涼殿で乳兄弟の源益を殺害するという事件を起こしました。このため基経は陽成天皇を廃位し、従順な光孝天皇を擁立します。

■醍醐天皇を右大臣として助けていた

しかし光孝天皇が後継ぎを定めないまま崩御すると、基経は臣籍降下していた源定省を皇族に復帰させ、宇多天皇を誕生させました。

基経のおかげで天皇になれた宇多天皇は、基経を関白に任命します。関白という役職はこのとき初めて誕生したのでした。しかし、橘広相に起草させた勅命に「阿衡(関白の異称)に任じる」という言葉があったため、「阿衡」が実権のない名誉職だとして、この勅命の文章を不服とした基経は以降、一切の政務を放棄。国政は滞って混乱します(阿衡の紛議)。結局、この事件は、基経の権力を見せつけることになりました。

30歳になった宇多天皇は、寛平9年(897)、皇太子・敦仁親王を元服させて譲位します。この醍醐天皇の代初として「昌泰」と改元しました。

醍醐天皇を、左大臣の藤原時平と共に助けていたのが、右大臣の菅原道真です。道真はもともと宇多天皇の側近であり、宇多天皇は上皇となってからも、道真や源希、平季長といった自らの側近たちを、新天皇の周囲に置いて大きな影響力を誇っていました。

■「ウソの訴え」で大宰府に左遷された

ですから、仁明天皇の嫡流子孫である元良親王を皇太子にしようという動きがある中、醍醐天皇が時平の妹の入内を勧めましたが、宇多上皇は時平が外戚の立場を狙っているとして強く反対します。そして宇多上皇が自らの第三皇子であり、菅原道真の娘婿でもあった斉世親王を皇太弟(皇位を継ぐべき天皇の弟)に立てようとしているという噂が流れると、醍醐天皇は時平らと共に、宇多上皇から政治の主導権を取り戻そうとしました。

そうして時平が「道真が娘を嫁がせていた斉世親王を皇位に就けようと企んでいる」とウソの訴えを起こし、道真を太宰府へ左遷させてしまったのです。宇多上皇はこれを止めようとしましたが、内裏に入れず涙を飲みます。

■雷に打たれる、泥沼に転落……怪死事件が続発

「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

道真はこの歌を詠み、遠い九州の太宰府へと向かいました。道真は2年後の延喜3年(903)、太宰府で没しました。ここから朝廷は道真の怨霊に悩まされるようになります。『北野天神縁起絵巻』などによれば、道真が死んでまもない夏の夜、比叡山の僧侶のもとに道真が現れて「怨みを晴らす」と告げたといいます。

そして立て続けに、怪死事件が発生します。延喜8年(908)、藤原菅根が雷に打たれて落命。翌年には時平が病死。延喜13年(913)には源光が鷹狩りの最中に泥沼に転落して溺死。さらに時平の妹と醍醐天皇の間に生まれた皇太子・保明親王が延喜23年(923)、満19歳で死去……。

次々と続く関係者の死に、人々は「道真公の祟りだ」と噂しました。醍醐天皇も道真を左遷させたことを後悔し、道真を右大臣に戻す詔を出して、その霊を鎮めようとします。しかしそれでも怪異はおさまらず、さらに衝撃的な事件が起きるのです。

■あまりに凄惨な「清涼殿落雷事件」

延喜23年(923)、日照りや水害、疫病を鎮めるために「延長」と改元されます。しかし、延長3年(925)に保明親王との娘との間に生まれていた慶頼王が満3歳で死去したことで、道真の祟りはまだ続いているとされました。そしてやはり人々を震撼させる恐ろしい事件が起きたのです。

山本博文『東大流「元号」でつかむ日本史』(河出新書)

それは延長8年(930)清涼殿において、雨乞いの実施の是非について会議が行われていた時のことでした。昼過ぎに突然黒雲が垂れ込め、あっという間に平安京を覆いつくすと雷雨が降り注いで、しばらく後に清涼殿の南西の第一柱にいきなり雷が直撃しました。

近くにいた公卿らが巻き込まれ、大納言民部卿の藤原清貫は衣服に燃え移った火に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態に。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で外に運ばれましたが、程なく死亡しました。雷は隣の紫宸殿にも落ち、右兵衛佐の美努忠包、紀蔭連、安曇宗仁も死亡。更に警備の近衛兵も2名死亡したのです。

あまりにも衝撃的で凄惨な事件でした。この「清涼殿落雷事件」直後から醍醐天皇の体調も悪くなり、震えあがった朝廷は、道真の子らの流罪を解いて京に呼び戻しますが、醍醐天皇の病は癒えなかったのです 同年、醍醐天皇は皇太子・寛明親王に譲位し、朱雀天皇が誕生します。その7日後に出家した醍醐上皇は、その日の内に崩御しました。

道真が死んで約40年後の天暦元年(947)、道真の祟りを解くために、京都に道真を祀る社ができます。それが北野天満宮であり、こうして道真は神となったのでした。

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山本 博文(やまもと・ひろふみ)
東京大学史料編纂所教授
1957年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修了。専門は大奥女中や江戸官僚組織。『江戸お留守居役の日記』でエッセイスト・クラブ賞受賞。

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(東京大学史料編纂所教授 山本 博文 写真=iStock.com)