冬季五輪の回想。あの失敗ジャンプ後、原田雅彦は力なく笑っていた
短期連載・五輪記者オリヤマの追憶 リレハンメル(1994年)
私が初めて取材に訪れた冬季五輪は、1994年2月にノルウェーで開催されたリレハンメル五輪だった。それまで、夏冬同じ年に行なわれていた五輪が2年ごとの隔年開催となり、前回大会のアルベールビル(フランス)五輪からわずか2年後に行なわれた大会だ。

スキージャンプ団体の2本目が失敗ジャンプになり、うずくまる原田雅彦
ノルディックスキー発祥の北欧の地で、日本人選手がほぼ確実にメダルを獲るだろうと目されていたのが、ノルディック複合だった。1990年代に入り、世界に先駆けてV字ジャンプに対応した日本人選手たちは、前半のジャンプの飛距離で他国勢を大きく引き離す戦い方でアルベールビル五輪の団体で金メダルを獲得。
リレハンメルでも代表となった阿部雅司、河野孝典、荻原健司はW杯の個人総合上位をキープして本番を迎え、団体では2大会連続で表彰台の頂点に上ることになった。
私はその団体戦の前に行なわれた個人戦でも、W杯や世界選手権で連勝街道をひた走り、「キング・オブ・スキー」の異名をとっていた荻原が金メダルを獲ることは当たり前だと思っていた。しかし、気まぐれな風が荻原のジャンプを大きく狂わせることになる。
当時はまだ、V字ジャンプが風の影響で飛距離に大きく差が出ることが十分に認識されておらず、大会側も追い風が収まるのを待ってイコールコンディションにする対応をとっていなかった。不運なことに、荻原の時だけ追い風が強く吹き、見ていた私も「ウソでしょ」と思うほどに飛距離が伸びず、6位と大きく出遅れてしまう。
荻原は、後半のクロスカントリーではそこまで抜きん出た力があったわけではない。それでも上位を追う気迫の走りを見せたが、あと一歩メダルに届かず4位。その後も長らく第一線で戦い続けたが、4年後の長野でも個人4位、8年後のソルトレイクでは個人11位に終わっている。W杯で通算19勝を誇る荻原ほどの選手が、五輪では個人のメダルを獲得することなく引退を迎えることになった。
しかし、そんな荻原の悲運がかすむほどの事件が、ジャンプのラージヒル団体で起こる。
その頃の日本ジャンプ界は、長野五輪に向けて潤沢な資金を投じて強化が図られていた時代で、外国人スタッフを招き、スキーの板もメーカーから最新のものを提供されていた。その効果もあり、ノルディック複合と同様に、日本のジャンプ選手の多くがW杯で上位入賞を果たして五輪を迎えた。
リレハンメルでもその実力通り、日本はラージヒル団体2本目の3人目まで安定したジャンプを見せ、最後の原田雅彦のジャンプを前に2位以下を大きく引き離していた。日本を追う立場のドイツの最終ジャンパー、イェンス・バイスフロクが、順番を待つ間に原田と「コングラチュレーションズ(おめでとう)」と握手を交わすなど、勝負はすでに決まったも同然だった。
そのバイスフロクが135.5mのスーパージャンプをマークしたものの、原田は100mを少し超えれば優勝が決まる。しかし、そこで何が起きたかは言うまでもないだろう。結果は、97.5mの大失敗ジャンプ。着地の瞬間、私は目の前の現実が受け入れられず、会場の空気が止まったように感じた。
大会後の報道では、バイスフロクがプレッシャーをかけたことが原因とも言われた。だが、原田は自分でも「確率が悪いジャンパーだった」と語るように、もともと飛ぶタイミングにズレがある選手だった。それが圧倒的優位なあの状況で出てしまうくらい、五輪の最終ジャンパーの緊張感は想像を絶するものだったのだろう。
その時の映像を覚えている方も多いだろうが、原田はうずくまって頭を抱え、泣いているようにも見えた。しかし、チームメイトが「銀は獲れたよ」と慰めに行くと、顔を上げた原田は笑っていたらしい。葛西紀明は後にその時の心情を「さすがに、この野郎と思った」と冗談交じりに振り返っている。
ジャンプ団体が終わった後、私はリレハンメル市内の商店街で原田と鉢合わせした。その心中を思い「大丈夫?」と声をかけると、彼は力ない笑顔を返してきた。あまりの出来事に、本人にすれば笑うしかなかったのかもしれない。リレハンメルにあるオリンピック記念館には、うずくまる原田の写真が今も飾られている。そのくらい、現地でも大きい事件として記憶されているのだ。
大会後、葛西は団体よりも、個人でメダルが獲れなかったことを悔しがっていた。当時のスキージャンプは、前出のバイスフロク、ノルウェーのブーデセン、オーストリアのゴルトベルガーの3人が表彰台を争っていたが、そんな中、葛西はノーマルヒルで「あと50cm飛んでいたら銅メダル」という惜しいジャンプを見せていた。
リレハンメルで3強に肉薄するまでに、葛西は大きな決断を迫られていた。ほとんどの日本選手はアルベールビル五輪の前からV字ジャンプを取り入れていたが、葛西は最後までクラシカルスタイルで代表入りを目指していた。彼はスキー板を右側に傾け、正面から見ると体と板がV字になるようなスタイルで飛んでいたため、左足をうまく開くことができなかったのだ。
それでも、W杯ではトップテンに入るなど実績を残し、アルベールビルの代表に選ばれたが、大会1カ月前に監督から「V字に変えろ。変えなければ連れていかない」と言われ、渋々それに応じた。その結果、アルベールビルは惨敗に終わっていただけに、そのリベンジの場となったリレハンメルで、わずか50cm差でメダルを逃したことは相当悔しかったのだろう。
葛西に関しては、日本が金メダルを獲得した長野五輪で補欠だったことが頻繁に取り上げられているが、45歳になるまで現役を続けてこられたのは、リレハンメルの悔しさがあったからかもしれない。
リレハンメルは、長野五輪に向けて若手たちが実力を示した大会でもあった。
当時18歳の里谷多英がモーグルで11位に入り、大学生だった清水宏保もスピードスケート500mで5位の成績を残して4年後の金メダルにつなげている。特に清水は、目の前で堀井学が銅を獲ったことが、長野でのメダル獲得に向けていい目標になっただろう。
ダークホース的存在だった堀井がメダルを獲得できた背景には、スピードスケート界のトップ選手だったアメリカのダン・ジャンセンの失敗があった。彼はそれまで3度五輪に出場し、常に優勝候補に挙げられながらもう一歩のところでメダルを逃し続け、「悲運のスケーター」とも呼ばれていた選手だ。
28歳と年齢を重ね、そのシーズンのW杯で5勝して迎えたリレハンメルでも、500mでは最終コーナーで手をつき、8位に終わってしまう。
私は「これで日本人にもチャンスが出てきた」と思った半面、同時に「ダン・ジャンセンほどの選手がメダルに嫌われたまま終わるのか」と複雑な気持ちにもなった。それは他の観客たちも同じ思いでいたようで、最後の最後に1000mで彼が念願の金メダルを獲得した際には、会場中が祝福していた。その光景は、この大会で一番の感動的なシーンとして記憶している。
自国の選手でなくてもそれだけの声援を送ったように、ノルウェーの観客たちは本当に冬季競技を愛していた。スケート会場近くの大きなテントにはパブリックビューイングが用意され、チケットのない人でも会場の雰囲気を感じながら観戦をすることができた。ペットボトルの飲み物が凍るほどの寒さの中でも、テントを張って場所を取ったり、発砲スチロール箱の上に立ち見で観戦したりと、小さなリレハンメルの街が五輪に熱狂していた。
現在の五輪は競技数が増えて規模も大きくなり、あの熱気をギュッと詰めたような雰囲気を感じるのは難しくなっている。しかしそれでも、間近に迫る平昌五輪は、競技や選手をリスペクトする気持ちが前面に出た大会になることを期待する。
折山淑美(おりやま・としみ)
長野県生まれ。1992年のバルセロナ五輪以降、夏季・冬季五輪を14大会連続で現地取材を行なっているフリーライター。フィギュアスケート、スキージャンプ、陸上など、競技を問わず精力的に取材を重ね、選手からの信頼も厚い。著書に『日本のマラソンはなぜダメになったのか 日本記録を更新した7人の侍の声を聞け!』(文春e-book)、『「才能」の伸ばし方──五輪選手の育成術に学ぶ』 (集英社新書)などがある。
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