新鋭のストライカーとして注目された時代。バルサを撃破した3発のインパクトは強烈だった。 (C) REUTERS/AFLO

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 本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
 
 毎回、非常に興味深い同コーナーだが、7月7日発売号に登場するのは、ウクライナの英雄であり、ディナモ・キエフ、ミラン、チェルシーで活躍したスーパーストライカー、アンドリー・シェフチェンコだ。
 
 先のEURO2016では母国代表チームのベンチにその姿が見ることができた彼の、栄光のキャリアをここで、改めて振り返っていこう。
 
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 シェフチェンコが生まれたのは1976年9月29日。当時、ウクライナはまだソビエト社会主義共和国連邦を構成していた国のひとつであり、彼はキエフ州のドヴィルキウシュチナ村で生を受けた。
 
 幼い頃からサッカーを始めたシェフチェンコが当時、最も憧れたのは名門ディナモ・キエフの快足FWで、75年にはあのフランツ・ベッケンバウアーやヨハン・クライフを抑えてバロンドールを受賞したオレグ・ブロヒンだった。
 
 ちなみにこの“憧れの人”とは、後にウクライナ代表で、監督、選手の関係として、母国のために戦うこととなる。
 
 ウクライナといえば、86年4月に世界を震撼させた原子力発電所事故が発生したが、シェフチェンコもこれにより、一家で故郷を離れることを強いられた。
 
 ちなみに少年時代の彼は、サッカーと同時に、ボクシングでも腕の良さを見せていたが、最終的に人を殴ることよりも、ボールを蹴る方を選ぶこととなった。
 
 10歳の時、スポーツ学校の試験を受けるも不合格。しかし、偶然この場にいたディナモ・キエフのスカウトの目に留まり、入団が決まった。そしてその4年後には、U-14のチームとして国際大会に出場して得点王に輝くなど、めきめきと力を付けていった。
 
 リザーブチームでのプレーを経て、94年11月28日、シャフタール・ドネツク戦でトップチームデビュー。当時、キエフは国内で圧倒的な強さを誇っており、シェフチェンコはミランに移籍する99年まで、全てのシーズンでリーグ優勝を勝ち取った。
 
 99年にはリーグ得点王にも輝いた彼だが、その存在が一躍、欧州中に知られるようになったのは、97-98シーズンのチャンピオンズ・リーグ、グループステージでのバルセロナ戦だろう。
 
 アウェーでの一戦、戦前は不利を予想されたが、シェフチェンコは2度もGKビトール・バイーアに空中戦で競り勝って2点を奪った他、PKを決めて前半のうちにハットトリックを決めたのだ。
 
 キエフはこのシーズン、バルサを最下位に蹴落とし、自らは首位で準々決勝まで駒を進めた。
 チャンピオンズ・リーグの常連となったキエフにおいて、高い得点力を誇るシェフチェンコは、当然ながらビッグクラブの注目を集めたが、いち早く動いたミランが、この宝石を手に入れた。
 
 99-00シーズンより、ロッソネロのユニホームを身に纏った彼は、高い順応性を示し、ファーストシーズンからゴールの山を築いていく。チームとしてはいまひとつの結果に終わったこのシーズン、シェフチェンコは最終的に24ゴールを記録してリーグ得点王に輝く。
 
 ミランの外国人としては、グンナー・ノルダール(スウェーデン)以来となる、2人目の得点王となったシェフチェンコ。翌シーズンは同じく24得点、01-02シーズンは14得点を記録したが、続く02-03シーズンは5ゴールに止まる。しかし、シーズン後の喜びはこの時が一番大きかった。