---原作者さんたちにもお会いして監修をお願いしていたのでしょうか?

神谷
 実は、僕は一度もお会いしていないんですよ(笑)
西澤さんはアニメ化の準備段階でほったゆみ先生と小畑健先生に会っていろいろ打ち合わせをしたようです。最終回のアフレコにはほったゆみ先生がいらっしゃったのでえんどうさんもお会いしてて…僕はロングリリーフの長い中継ぎ投手のようなものだったんです。野球9回でいうと、2回から8回まで受け持ったピッチャーといった感じです(笑)。ですので、お会いする機会がないままでした。
脚本が上がった段階で当時のジャンプの担当編集さんに監修をお願いしていたのですが特に変更のご注文などは無く、スムーズにやらせていただきました。

---放送当時の2000年初期はデジタルアニメーションが増えだした頃かと?

神谷
 ヒカ碁が2001年でしたね。1999年あたりからスタジオぴえろもフルデジタルに移行しました。動画(線画)までは紙の作業なんですけども、色を塗る作業はデジタルでした。
セル画は無く、動画と背景画は素材として残っていますが、彩色したものはデジタル上のデータのみなんです。
あの頃の日本のアニメ界はアナログからデジタルへの移行期でしたね。
手描きの絵を撮影して…といっても普通のカメラ撮影ではなくPCでオーサリングしていくのですが、そのノウハウも今と比べたら初期の段階でした。アナログで培った表現がデジタルで出来るのか。そのつど相談でしたね。

---たとえば光の表現も?

神谷
 アナログでやっていた手法の置き換えですね。
あのころはデジタルで何ができるのか試算段階でしたが、あれはデジタル化してもある程度同じ質感のものが出来ました。新しい開発よりまず、昔出来たことをこっちでも出来るようにするという目標が最優先で、デジタルの恩恵を積極的に使えるレベルまで至ってなかったんです。
当時は盤面を光らせる透過光も、どのぐらいアナログに追いつけるか、フィルムっぽくできるかが焦点の「デジタル事始めの時代」でしたから、当時出来たばかりのデジタル撮影部には、この方法の再現をなんとかお願いしますと頼んでました。
今なら成長したデジタル技術で、もっともっと幽玄な表現が出来るかもしれませんね。