【プレイバック’06】『附属池田小事件』惨劇の「再現写真」…現場検証で犯人が見せた“意外な顔”
事件5年後に当時の資料を入手
10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックを今ふたたびふり返る【プレイバック・フライデー】。今回は20年前の’06年6月23日号『スクープ公開 池田小事件から5年、現場検証で明らかになった残虐 鬼畜宅間守「児童8人惨殺の現場」再現写真』を取り上げる。
’26年6月8日、大阪教育大附属池田小学校(大阪府池田市)で発生した無差別児童殺傷事件から25年が経った。記事は事件から5年後に当時の現場検証の様子を、本誌が入手した写真資料と宅間守元死刑囚(当時37)の供述調書をもとに再現したスクープだ。
「エリートでインテリの子をたくさん殺せば、確実に死刑になると思った」という理不尽な動機から児童8人が殺害され15人が重軽傷を負った凄惨な事件。資料からはその詳細な状況が浮かび上がった──(《》内の記述は過去記事より引用、肩書は当時のもの)。
事件から約1ヵ月後の’01年7月2日。現場となった池田小に宅間の姿があった。この日に行われた現場検証のために訪れたのだ。この日の宅間はストライプの長袖シャツ姿。現場は事件当時のまま保存されており、血の痕がまだ生々しく残っていた。惨劇の舞台を目の前にして、さすがに自身が犯した罪の重さを痛感したのか、宅間は最初の教室に入る前に合掌していたという。
そして、椅子に座った人形や、捜査員などを児童に見立て、包丁を手にして一つ一つの凶行を再現していった。
犯行当日、宅間は「できるだけ多くの小学生を包丁で刺し殺す」ことを決意し、池田小を訪れた。そして校舎に侵入し、たまたま突き当たった教室に狙いを定めた。当時の記事に掲載された調書では、宅間自身の言葉でそのときの様子が語られている。
《〈私の心の中は激しく緊張していました。できるだけ多くの小学生を包丁で刺し殺すと計画はしていたものの、いざそれを実行するとなると、身体の何処かで恐さというものを隠しきれませんでした。
しかし、その恐さを押し殺すように自分自身で、やるしかない、やるしかないと心に言い聞かせました。これから起こす事件のことを考えると、身震いがしました。私の耳には、何の音も入ってきませんでした。変にシーンとしていたような気がします〉(原文ママ、以下同)
その教室は2年生のクラスだった。宅間は後ろの入り口から中へ入ると、ビニール袋に入れていた出刃包丁を取り出し、右手に持った。前に目を向けると、手を伸ばせば届く距離に女児がいた》
現場検証のときに見せた思わぬ行動
女の子は宅間に気づいたが、声を出すこともなくキョトンとしていたという。女の子と正面に向き合う形になった宅間は、女の子のお腹の辺りを目がけて出刃包丁を突き刺した。
《〈右手に持った包丁に左手を添えるようにして両手で刺したのですが、私の手にはすっという感触で包丁がお腹の中に入ったという意識がありました〉
その後は、まさに地獄絵図のような修羅場となった。宅間はただ子供の生命を奪うことのみを考え、出刃包丁をメチャクチャに振り回したという。
〈私の耳にはキャーと言う子供の声で今も残っています。その声が私に刺されたときに叫んだものなのか、逃げまどうときに叫んだ声なのかということは分かりません〉》
宅間によれば、包丁が体の中で刺し止まる感覚も、抜くときの抵抗感もなかったという。〈本当にすっ、すっという感触で包丁が子供の体に刺さっているのだと思うのです〉と供述している通り、宅間は冷酷に包丁を振るい続け、死傷者の山を築いていった。
逃げ惑う子の背中を刺し、恐怖のあまりだったのか、うずくまっている子供にも容赦なく襲いかかった。何とか制止しようと立ちはだかった教員も刺した。そのとき宅間は何を考えていたのだろうか。供述調書では次のように述べていた。
《〈子供を殺したりしたら可哀想だとか、子供を殺してはいけないなどという理性はまったくなかったと思うのです。頭の中には、子供を殺すということしか無かったということです。それくらい、私は必死になって子供を刺し殺そうとしていたのです〉》
これを鬼畜の所業と言わずして何と言おう。
逮捕直後から公判、死刑執行に至るまで、ついに被害者遺族に謝罪することのなかった宅間だが、この現場検証のときだけは様子が違ったようだ。教室に入る前には一礼して手を合わせ、検証作業にも協力的だったという。このときの心境について供述調書で宅間は次のように述べている。
《〈実は、学校に行くということを決めてから、心の中で考えていることがありました。最初に襲った教室に入る前に、私が殺した子供たちに申し訳ないことをしたと供養するために、合掌をしたいということを考えていたのです。(中略)現場に行って実際に手を合わせているのですが、気持ちが引き締まりました〉》
最後まで遺族に謝罪することはなく、暴言ばかりを吐き続けた宅間。この日だけ見せた彼のしおらしい態度は何だったのだろうか──。
最後の最後まで「謝罪」することなく…
多くの人が知る通り、’01年12月27日から始まった裁判では、宅間の法廷での傍若無人なふるまいが毎回のようにメディアを賑わすこととなった。
初公判では、検察官による起訴状の読み上げの途中で「座ったらあかんか?」と発言、裁判長に「立ったまま聞いていなさい」とたしなめられた。自身の生い立ちへの不満、父親、母親への憎悪を饒舌にまくし立てる一方で、亡くなった子供たちや遺族への謝罪は一切なかった。
最終意見陳述では、弁護団が添削したメモの内容を無視して、
「死ぬことはまったくビビっていない。しようもない貧乏ったれの人生やったら、今回のパターンのほうがよかったかもしれない」「幼稚園ならもっと殺せたと今でも考える」「女は絶対に殺すより顔を切るほうがダメージが大きい」
などと発言、遺族の神経を逆なでした。そして’03年8月28日の判決公判でも不規則発言で退廷させられ、死刑判決を直接言い渡されることはなかった。さらに退廷の際には遺族に対して暴言を吐いて去っていったのだった。
弁護団の控訴を、宅間が自ら取り下げたために一審で死刑が確定。’04年9月14日に判決から約1年という異例の早さで刑が執行された(享年40)。執行が早まったのは、本人に贖罪の意思がなく刑の早期執行を望んでいたこと、現行犯逮捕で罪を認めており冤罪の可能性がないこと、さらに被害者・遺族の強い処罰感情への配慮などが要因だとみられている。
’01年7月の現場検証のときの宅間の様子について、大阪府警関係者は本誌の取材に次のように語っていた。
《「後に法廷で見せていた傍若無人ぶりはまったくなく、しおらしく検証に応じていたのか印象的だった。私が思うに恐らく、宅間は現場検証のときには罪を反省していたのだろう。しかし、後悔する気持ちを人には見せたくない、嫌がらせをしてやりたいという屈折した心理が反省の弁を封じ、それが最後まで解きほぐれることなく、絞首台に登ったんでしょう」》
