「鉛筆も補償金で買うの?」生まれながら背負った水俣病 傷ついた記憶と未来への思い
生まれながらに背負った水俣病。傷ついた記憶と、亡き家族に伝える言葉です。
30日、水俣市にある胎児性患者の作業所を石原宏高環境大臣が訪れました。
思いを伝えた一人が、母親の胎内で水銀の被害を受けた永本賢二さん。
■胎児性水俣病患者・永本賢二さん
「まだまだ終わっていない水俣病。80年たってもずっと終わらない。まだまだ苦しんでいる人、車いす生活の人たちの事、考えてもらいたい」
今も忘れない少年時代に傷ついた記憶。そして、未来につなげたい思いとは…。
「自分の体を返してください。歩ける足を返してください」
永本賢二さん(66)。生まれながらに水俣病を背負ってきました。母親が知らずに汚染された魚を食べ続けたことで、胎盤を通じてメチル水銀に侵されました。
この世に生を受けたのは水俣病が公式に確認されてから3年後の1959年。生まれながらにして手足が思うように動きませんでした。
■永本賢二さん
「学校でノートを買うときに言われた言葉があります。それがとってもいやでした。『いいね、ノートも(水俣病の)補償金で。鉛筆も補償金で買うの?』と言われたときに私は言い返せなかった」
そんな自分のために動いてくれたのは。
■永本賢二さん
「お父さんがいたから一生懸命(会社に水俣病と)認めさせてくれたから、僕の人生が始まったかなと思います」
永本さんの父、正人さん。勤めていたのは水俣病の原因企業チッソでした。原因企業に勤めながら息子を水俣病患者と認めさせるために会社と交渉を続けたのです。
■永本賢二さん
「僕の父親はチッソに勤めながらチッソの本社に行って、僕(息子の水俣病)を認めさせてくださいお願いしますと言ってくれた。親父っていうのはやっぱり障害があっても息子は息子だし、やっぱり存在は大きかったですね。僕にとっては。やっぱり(酒を)飲みたかったですね、親父と」
父がこの世を去って半世紀以上。2万2000人以上が熊本県や環境省に水俣病の患者の認定を申請していますが、認定されたのは約8%。今も戦いは続いています。もし今も父が生きていたら…
■永本賢二さん
「(水俣病は)まだ終わってないよ。どうするのと反対に聞いてみたい。親父たちが、お母さんが生きていたら、まだ終わっとらんばい。どげんすっと?と」
