小泉進次郎防衛相

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 いつもの光景というべきか、「自衛隊の歌姫」が自民党大会に参加し、制服姿で国歌斉唱をした一件では、「法的に問題ないのだからガタガタ言うな」的な意見から「政権のおごりの象徴だ」的な意見まで、百家争鳴の状態となっている。

『「“右翼”雑誌」の舞台裏』などの著作があり、自衛官だった父を持つライターの梶原麻衣子氏は、この件をどう見たか。冷静な議論のために論点を整理してもらった。

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【実際の写真】美貌も注目される「自衛隊の歌姫」(38)

「NHKから国民を守る党」でも呼べるのか

 自民党大会で自衛官が制服を着て国歌斉唱をリードするために参加した問題(以下、党大会問題)について、問われるべきは国歌を歌った自衛官個人ではない。党大会への歌唱のための参加を自衛隊法上や組織の問題だとしたくないばかりに「出演した自衛官は私人」を強調する自民党には猛省を促したい。

小泉進次郎防衛相

 一方で、「自衛官が制服で国歌を歌うこと」の是非にのみ焦点を当て「問題ない」と言い切る人たちもいるが、これは間違いだろう。今回問われているのは「党大会」というシチュエーションに問題はなかったか、という点である。後述するように自衛隊は国民のものであり、自民党のものではないからだ。

「自民党が呼ぶのが問題だというなら、他の党も呼べばいいじゃないか」という声も上がっている。だが自民党が与党だから公共感があるように感じるだけで、これが参政党や日本保守党、かつてのN国(NHKから国民を守る党)など、国政政党だったとしても必ずしも国民の大半の支持を得ているわけではない党だったらどうなるのか。政治的中立性だけを問えば、自民党のみ許可する方が問題となりかねない。となれば自衛隊は今後、どの政党からの依頼も断れなくなり、各政党の権威付け、党意高揚のためにいいように使われかねない。

 こうした問題意識を前提に、ここでは「自民党の対応」とそれを見誤らせたと考えられる「自衛隊の広報の変遷」に焦点を絞って考えてみたい。

業者のせいにする自民党

 今回、自衛官に国歌斉唱のリードを依頼した経緯は〈党側からの発案・要請ではなく、党大会の演出などを企画している業者側から、「歌手の候補」として推薦があったもの〉(萩生田光一幹事長代行)だという。

 党大会について、有村治子総務会長は〈自民党において最もフォーマルかつ最終的な意思決定の場〉として、年に1度開催されるものだとSNSで発信している。そのため、もちろん党側も萩生田幹事長代行によれば〈「党大会運営委員会」を設置し、そのもとに「党大会実行委員会」を設け、具体的な企画・運営について協議を行って〉いるとし、同時にこうも説明している。

〈党側から当該業者に、「現役の自衛官が一政党の党大会で歌唱することについて問題ないか」について確認をしたところ、防衛省も「問題ない」との回答があった、と承知しています〉

 つまり、党としては「問題がある可能性」を考えていたことになる。だがそうでありながら自民党は自ら判断するのでも、直に自衛隊側に問い合わせるのでもなく、「業者を挟んで問題ないことを確認した」だけということになる。

〈最もフォーマルかつ最終的な意思決定の場〉である党大会の内容にもかかわらず、この主体性のなさはどうだろうか。〈最もフォーマルかつ最終的な意思決定の場〉という表現とのちぐはぐさを感じざるを得ない。

「歌姫」と称される自衛隊音楽隊の歌唱担当の自衛官の歌声は、その名に違わず感動的なものだ。必ずしも自衛隊に好意的ではない人であっても、その歌声には魅了されるほど。歌唱用の制服の効果も絶大で、その凛とした姿には誰もが思わず息をのむだろう。

 自衛隊の音楽隊は部隊の団結鼓舞や士気高揚といった本来の目的を超えて、現在では強力な自衛隊の広報ツールの一つにもなっている。さらには被災地での演奏など癒やしの効果さえも持ちつつあるという。だからこそ、「その効果にあやかりたい」と考える人たちも少なくないのだ。

自衛隊は涙ぐましい努力を積み重ねてきた

 自衛隊の広報という観点でいえば、自衛隊は発足直後から国民、地域住民の理解を得るべく涙ぐましい努力を重ねてきた。アーロン・スキャブランド『日本人と自衛隊―「戦わない軍隊」の歴史と戦後日本のかたち』(原書房)に詳しいが、旧軍の負の遺産を背負って歩み出したばかりの自衛隊への世間の風当たりは厳しかった。それを払拭するために、自衛隊はかなりの努力を強いられた。

 筆者は24代陸幕長を務めた冨澤暉さんから「幹部になりたての頃、若い部下と一緒に駐屯地近くの田んぼで田植えを手伝った」と聞いたことがある。さっぽろ雪まつりへの協力も自衛隊が地域の理解を得るための広報活動の一環だった。

 東日本大震災など災害現場での活躍を目の当たりにしたことで、世論は自衛隊について「信頼できる組織」と感じるようになる。ただしそれは「災害救助隊」としてであって「軍隊」とは言い切れない面もあるが、一部の反対派を除けば「自衛隊が幅広く活動し、制服や作業服が人目に触れることはまかりならん」という人はごくわずかとなった。

 さらに時代は、自衛隊が「映えるコンテンツ」となるまでに変わった。画像でも動画でも、制服姿や戦闘服姿の自衛官や装備品は「映える」。それは自衛隊側も自覚していて、「広報」目的のための露出を増やすべく各駐屯地もSNSアカウントを持ち、隊員募集の任を負う各地方協力本部も、動画による発信を含めて力を入れている。

 というのも、充足率が90%程度となり、士の階級では実に67%と厳しい情勢の続く隊員募集を何とか改善しなければならないからだ。

 現在、その「映え」を最も効果的に使っているのが他でもない小泉進次郎防衛大臣だ。

政府と党の区別はついているか

 小泉大臣は防衛大臣就任後、積極的に自衛官との交流をSNSで報告している。現場から上がってくる声に応じて待遇改善を図る意向を示すほか、外部から寄せられる心無い声に苦しむ隊員の家族を登場させ、世間に配慮を求める投稿もある。自衛官の家族だった筆者としては、小泉大臣の自衛官思いの姿勢をありがたく思ってもいたところだ。

 だが一方で「映えない」問題、例えば組織内のセクハラやパワハラの問題への言及が手薄なことが気になっていた。小泉大臣は今後、こうした問題にも積極的に取り組んでくれるのか、見ていかなければと思っていた。

 その矢先の党大会である。

 ここで自民党の問題と自衛隊の広報の問題が交差する。

 小泉大臣はいわば「いつものように」、自身の活動に関わった自衛官である「歌姫」とのツーショットをSNSの自身のアカウントにアップしている(後に削除)。防衛大臣として自衛隊の広報の一端を担う気持ちもあったのだろう。だがシチュエーションは党大会であり政府の式典ではない。

 大臣以下防衛省、自衛隊はもちろん、そもそも自民党は「政府と党」の区別がついているのか。こうした区別意識の欠如と「映え」に引き寄せられる政治サイドのうかつさが、今回の問題を招いたのではないか。

 自民党幹部に、巷間言われるような「自衛隊を私兵にしよう」とか「人民解放軍のように党の軍隊にする」つもりなどさらさらないのだろう。だからこそ「自衛隊が問題ないと言っているから大丈夫」「イベント会社が確認したから平気」「広報にもなるし映えるからSNSでも発信しておこう」といううかつさと、「政府と党の区別がついていない」ことによって今回の事態を招いたのではないか。

否定できない「うかつさ」

 自衛隊は「国民の自衛隊」であるべきで、特定の「誰か」が占有していいものではない。政府を構成する与党とて例外ではない。だからこそ党大会という場が問題視されるのだ。

 ならば事の発端、つまり出演を依頼した党こそが責任を引き受けるべきだ。責任の所在があいまいになれば、党や政府、自衛隊が「私人参加」を強調することで本来責任がないはずの自衛官個人へと矛先が向きかねない。それこそが、「自衛官思い」の小泉大臣にとって最も耐え難いことのはずだ。三歩遅れて「防衛省内で私に報告があれば違う判断もあった」と言い出す姿勢で、今後自衛官を守れるのだろうか。

 また、今回の党大会問題をきっかけに「政軍関係のあり方」が問われることになるだろうが、その際には「自衛隊を軍として扱ってきたのか」も問われることになる。

 憲法9条によって「軍ではない組織」とされてきたのが自衛隊なのである。命を懸けて国を、国民を守ろうというのに軍としての信頼も名誉も与えられずにいれば、(決していい傾向ではないが)「褒めてくれる誰か」「映え目当てであっても認めてくれる相手」との癒着が生じやすくなる。

 あるいは防衛省(内局)が自衛隊をすっかり行政組織扱いして「与党にはいつもお世話になっているから」と参加を許可したのであれば大問題である。

 こうなると、「こんな状態で憲法改正はまかりならん」という声も出よう。だがそうした声とは逆に、政軍間に必要な緊張感が生じない理由には憲法9条という日本独自の要素があることは否定できない。

 政軍関係について分析する廣中雅之『軍人が政治家になってはいけない本当の理由』(文春新書)では、日本で適切な政軍関係を構築するには〈まずは、自衛隊を、現行憲法および国内法制の下で、高度な軍事専門組織として国家機構の中に明確に位置付ける必要がある〉と指摘する。廣中氏は元航空自衛隊空将である。

 自衛隊法は自衛官が政治的行為を行うことは禁じているものの、政治の側が自衛隊を利用することについては何らの規制もない。自衛隊が国家機構の中に明確に位置付けられていない状態で「自民党と自衛隊の付き合い方が国民からどのように見えるか」の判断を政治の側に任せていると、時として今回のようなうかつな事態が起きるというわけだ。

〈自衛隊はつねに国民とともに存在する〉

 これは昭和36年6月28日に制定された「自衛官の心がまえ」という、自衛官としてのあるべき姿を示した文書の一文だ。これを引いた上で改めて問いたい。政府式典ではない、一政党の党大会へ自衛官の出演を依頼することは、「国民とともに存在する自衛隊」の姿にふさわしいか。そして同時に、心構えが必要なのは、政治の側ではないのかと問わねばなるまい。

梶原麻衣子
1980年埼玉県生まれ。中央大学卒業。月刊「WiLL」、月刊「Hanada」編集部を経て現在はフリーの編集者・ライター。著書に『「“右翼”雑誌」の舞台裏』『安倍晋三 ドナルド・トランプ交友録 How to DEAL with Trump』。

デイリー新潮編集部