漱石でも印税より給料のほうが高かった…「食える作家」の時代はいつ到来したのか
出版不況やSNSの発達などにより、「ライターが食えなくなる」、すなわち文筆業のみによって生計を立てることが難しくなった、または今後困難になるという議論があります。この問題を考えるうえでは、歴史を振り返り、そもそも「職業作家」はどうやって生まれたのかを考える必要があるでしょう。「宮仕え」だった紫式部、職業作家の先駆けといえる井原西鶴、そして名文家ながら生活に困窮した石川啄木や樋口一葉…。出版文化が花開いた明治時代に突入すると、書き手のあり方も大きな変化を遂げます。
前回はこちら:「ライターが食えなくなる」議論に抜け落ちている視点…出版市場が生まれた「歴史的経緯」
金田一京助にカネを無心した啄木
明治時代の書き手の安定度は、「どこの組織に属しているか」で決まったと言っても過言ではありませんでした。夏目漱石(1867-1916)は、東京帝国大学の講師を辞め、東京朝日新聞に入社し、そこで連載を持つことで高給を得ていたことはよく知られています。
対照的なのは、短歌「働けどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る」(『一握の砂』)で有名な石川啄木(1886-1912)です。
啄木は、22歳で上京し、1909年(明治42年)以降、東京朝日新聞社の校正係として働きながら創作を続けましたが、経済的には不安定で、生活は常に困窮していました。
収入の問題だけでなく、浪費癖があり、友人である言語学者の金田一京助(1882-1971)らを頼って多額の借金を重ねるありさまでした。
家計は破綻状態で、なおかつ持病の肺結核が急速に悪化し、最後は借家で家族や歌人の若山牧水(1885-1928)らに見取られながら亡くなっています。
浅井清・市古夏生監修/作家の原稿料刊行会編『作家の原稿料』(八木書店)によると、石川啄木の校正係としての初任給は月25円で、夜勤手当5円と合わせて計30円。対する夏目漱石は、月200円と破格の待遇でした。
漱石は印税より年俸のほうが高かった
日本近代文学研究者の山本芳明は、『漱石の家計簿 お金で読み解く生活と作品』(教育評論社)でこう述べています。
「朝日新聞社から多額の給料・賞与をもらっていることを考えれば、漱石を専業小説家とは呼べない。しかし、小説家として稀に見る経済的成功を収めたことは間違いなかった。(略)同時代の小説家との比較からいっても、同時代の水準からいっても、漱石を『金持』に分類するしかないだろう」
ちなみに、これは山本が強調しているように、あくまで「同時代の小説家との比較」に過ぎません。
漱石の長女の夫であった小説家の松岡譲によれば、漱石の朝日新聞社の年俸は3000円であった一方で、印税は年平均で2000円前後だったと推定しており、「法外な高率と言われた印税をもってしても」勤め先の収入には及ばない実態を明らかにしています(『漱石の印税帖 娘婿がみた素顔の文豪』文春文庫)。
さらに、漱石が存命中の全著作の売れ行きは、全部で10万部程度と見積もった上で、年間平均1万部にも満たなかったと述べ、「これが当時文界の最高位に君臨して、特別扱いをうけていた人気作家の実体なのだから、いかにその頃の読書界というものが狭かったかがよくわかる。文士といえば貧乏と同義語だったわけも読めるというものだ」と総括しています(同上)。
まさしく、これが冒頭に申し上げた「どこの組織に属しているか」というフレーズの真意だったのです。明治の書き手たちは、原稿料や印税だけでは収入が足らず、別に勤め先=本業がなければ成り立たなかったというのが実像でした。
大正10年、小説家協会が誕生
文筆活動だけで生活を営める職業作家が「一定の層」として厚みを持ち始め、社会的地位が高まるのは大正時代を待たなければなりませんでした。1910年代に入ると、識字率の向上と都市中間層の拡大により、総合雑誌(『中央公論』『改造』など)や大衆雑誌が次々と創刊されました。
明治期に1枚50銭〜1円だった原稿料の相場が跳ね上がり、大正期には人気作家で1枚10円〜20円(現代の価値で数万円)へと高騰しました。前出の山本芳明は、『カネと文学 日本近代文学の経済史』(新潮選書)で膨大な資料を精査し、1919年(大正8年)辺りから小説家の収入が大幅に増加するようになったと分析しています。
山本は、編集者で小説家の中村武羅夫(むらお、1886―1949)の回想を引き、明治期の作家の貧しさについて、「『大正五六の好景気』以前では、流行作家であっても『四季の着物が、満足には着』られないのが普通」とし、「文士は、皆なケチな借家住まい」で、たいていは数か月分滞納していたとしています(同上)。このような境遇が劇的に変貌したのです。
「作家たちの経済的な安定は、必然的に作家たちのライフスタイルを変えていくことになった。作家たちの『職業化』、つまり専業化である。安定した収入の小説家という魅力的な職業が人々の前に突然出現したのである」(同上)
その変化を象徴するものとして山本は、大正10年の小説家協会の設立を挙げています。
以上は、いわゆる「文学村」の話ですが、他のジャンルの文筆家についても、雑誌の急増と原稿料の高騰が「職業化」「専業化」へと続く道を切り拓きました。
例えば、ジャーナリズムの分野では、文明批評家で、評論家、小説家でもあった長谷川如是閑(にょぜかん、1875―1969)は、朝日新聞社を退社後、フリーの記者となり、1919年(大正8年)に政治学者の大山郁夫(1880―1955)らと雑誌『我等』を創刊。『現代国家批判』『現代社会批判』などの著作も発表しました。
「ジャーナリズムで飯が食える」時代の到来
今でいうところのフリージャーナリストの走りであり、まさに「ジャーナリズムで飯が食える」時代の到来を告げていたわけです。これは、後述するように、国民国家の創生に伴うナショナリズムの台頭に促されていました。
紀行文の分野では、「草津よいとこ一度はお出で〜」の草津節の原型となった『湯けむり 草津紀行』を著した民謡詩人の平井晩村(ばんそん、1884―1919)がいます。報知新聞社を辞めた後、1915年(大正4年)に第一詩集『野葡萄』を出版し、俳句・短歌誌『白瓶』を創刊。『講談倶楽部』『少年倶楽部』『武侠世界』『日本少年』などの雑誌への寄稿だけでなく、新聞連載、書籍の書き下ろしも精力的に行なっていました。
キワモノ系では、エロ・グロ・ナンセンス文化を代表する出版人で、作家の梅原北明(ほくめい、1901―1946)がいました。1925年(大正14年)にアングラ・サブカルチャーの先駆けとなる雑誌『文藝市場』を創刊。彼は、吾妻大陸などの変名で小説を執筆しつつ、『グロテスク』『変態・資料』など、性的描写や風俗、奇談などを取り扱った雑誌を次々と出し、物議を醸しました。
このような多様なジャンルにおいて、書き手の「職業化」「専業化」は進み、自ら雑誌を立ち上げることも難しいことではなくなりました。ここに現在まで続く雑誌で執筆して原稿料を稼ぐ、本を出版して印税を得ることが立派な生業となる「専業作家」のロールモデルが完成したのです。
【後編を読む】円本ブームに「分厚い中間層」の出現、「書き手のバブル」を支えた出版「商業化の時代」
