人の心を動かすものとは何か。2025年2月に93歳で逝去した作家・曽野綾子さんは「料亭でごちそうされても義理堅くなることはなかった。魂が動くほどおいしいものは別にあるからだ」という。没後に見つかった未発表原稿を収録した『自分らしく生きるということ』(河出書房新社)より、一部を抜粋して紹介する――。
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■作家と編集者は「持ちつ持たれつ」の関係

編集者が作家から原稿を受け取った時、それはへたな小説だとわかってるんです。だけどそれを言わないで、どこか1カ所探して、「いやあ、ここは結構ですねえ」と。

ということは、それ以外は全部だめですよということなんですが、そのようなことができる人間が減った。昔は大記者とか大編集者っていうのは、怖くもあったけどそのような姿勢もあった。今は、よくわかりませんけれども、もちろん若い方の中にも、ちょっと私の書いた原稿に添えてくださる文章が、これは育てるという気持ちがおありになるなと。年齢が上とか下とかではないんです。

小説家とマスコミにいらっしゃる方っていうのは、私は、鵜(う)と鵜匠、それからサル回しとサルの関係だと言っているんです。手をたたくのは鵜に対してだと思う。ちゃんとうまく潜っていって飲み込んでくる。あれは鵜匠の綱さばきがあるから鵜があるのです。

ただ、鵜がいなければ鵜匠も成り立たない。だから全くこれはイコールの持ちつ持たれつ。サル回しもそうです。はっきりそのことを編集者も作家も同時に知っていて、お互いにお世話になる、またこれも言葉じゃ言わない、お互いに恥ずかしいから知らん顔をしてますけど、ことに作家なんて図々しい顔をしているけれども、お互いの支え合いと感謝というものがないとやっていけない。これを間違えるとだめです。

■大金をもらってもいい作品は書けない

私は、ゼネコンでたたかれるべきは、崩れるような構造物をつくる時だと思います。これはどうたたいてもいい。それはプロとして許されません。ロッキードの時もそうです。ロッキードを買って、ロッキードが悪い飛行機だったらたたくべきだったんです。でもロッキードが悪くない飛行機だったら、そんなに悪くない。

世の中には、どうしても汚職の部分はあると思う。なくてすむのは作家ぐらいです。これはなぜかというと、人の目があまりにも多いから。たとえば「さくら」っていう小説があるとするでしょう。これを普通のマスコミでいうとどこにレベルを置くかは別として、どんなに少ないものでも数100以上の読者が読むんです。

1人や2人ならなんとかいえちゃうんだけれども、橋と同じで、橋を渡るのは何億人、何10億、何100億、何1000億でしょう。そこまでいかなくとも小説もかなり多いんです。その人たちが勝手に好き嫌いをいう。だから時の流行は確かにあります。それから時の要求するエネルギーの波長に乗るか乗れないか、そういうものもあります。でも「あなたに原稿料1枚100万円あげますから」と言われても、いいものが書けるわけではない。

いつかもその話で笑ったんですけど、バイオリンとかピアノっていうのはいいものをあげた方がいい。全然違うでしょう。でも作家に、毎月1000万円あげるから、と言っても意味がない。

■小説家はほうっておいていい

私のところに編集者の方がおいしいものを持ってきてくださる。私は心からおいしいと思って感謝するけれども、その編集者がおいしいものを持ってきたからといって、原稿を早く書こうとは思わない。それはそれ。食べて忘れちゃって「やっぱりだめ、間に合いません」。その時、喜んでいるだけです。

ただ、私が彫刻家だとするでしょう。そうすると、いい大理石の塊をやるなんて人に会ったら、ちょっとおべっか使っちゃうかもしれない。でも、それで作品がいいかどうか、わかりません。

小説家と詩人はいいんです、ほうっておいて。貧乏してもいいし、だれか女の人にかわいがってもらって、ロールスロイスを買ってもらってもいいのです。無関係なんです。病気も失恋も、女房、子どもが死に絶えることも、あるいは文学のためなんです。そんなことは個人としては望めないことですけれども。作家にとって、起こることはすべて材料です。喜びも悲しみも、文学の一部になる。そう思えば、心はどんな時でも自由でいられるのです。

■簡単に自分の心を売っていないか

昔のユダヤ人は大変お金に厳密だったんです。そしてお金に関するもののふたを開ける時には決して1人ではない。必ず証人をつくる。そして当時は、ユダヤ教の祭司の祭服に宝石がついていたんです。

第1の列はなんとかとなんとか、第2の列はなんとかかんとか、どうせ庶民には関係ないんだから、我々だったら、坊さんが使う祭服に宝石がついていたってご勝手にという感じですが、ユダヤ人はそうじゃない。その祭服にそれだけのものがついてたっていうことを確認をとっていくんです、だれかが盗まないように。

だから決して1人で金箱というかそういうもののあるところには入らなかった。これは当然のことだと私は思いますね。カネのような、大事だけれどつまらないものに足をとられるなっていうことなんです。

私、汚職の話でいつもおかしいなと思うことがあるんです。ゴルフに連れていってもらうとかヨットに乗せてもらったとか、料亭で食事をごちそうしてもらったとか、そんなことで心を売るんでしょうか。

■「魂を売っていい」と思うほどおいしいもの

私なら、ヨットに乗せてもらっても、私はゴルフをしないけれど、ゴルフをやらせてもらっても、料亭で食事をごちそうになっても、「ごちそうさま」で終わりです。全然義理堅くない。ごちそうはごちそうになって、忘れちゃう。

私だって人にごちそうしたって……、もっともあんまりいいごちそうしないからかしら、イワシの煮たのとか、そんなのしか出していないせいか、私の友だちなんて、恩に着る人は1人もいないでしょう。だから料亭でごちそうになったって、私、なんとも思いません。むろん、そんなことあんまりないですけども。

正直言うと、料亭よりもそうでない方がおいしい。ご自分でトウモロコシをつくっていらっしゃる方のトウモロコシを採って、実をザザザッとそぎ落としてそれを揚げたかき揚げとか、こういうのは、魂を売ってもいいと思うほどおいしい。そういう魂を売ってもいいと思うほどのおいしいものって、たいていお金がかかってないんです。不思議なものです。

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■ごちそうしてもらったときの心構え

私には1番縁のない話だけど、なんでお役人がそんなことで便宜を図るんだろうとか、そしてまた図ろうとするんだろうとか、思ってしまいます。多分、それぐらいのことですぐ魂を売るんだと思う。そういうふうにこの頃、解釈してます。ごちそうになっておいて、それで「はい、はい」と言って神に感謝すればいいことです。

曽野綾子『自分らしく生きるということ』(河出書房新社)

ローマ教皇の口ぐせだけれど「神に感謝」という言葉があります。ある人が「教皇様、この人たちは障がい者の方の施設のために働いていらっしゃいました」と説明するでしょう。そうすると教皇は「ありがとう」と言わないで「神に感謝」って言うんです。方向が違うんじゃないのって。でも、すばらしい言葉でしょう。

私がこの方のために働かせていただけるのは、ほんとうにありがたい。健康がなきゃだめだし、今日何か稼いでこなきゃいけないんだったら、障がい者の方のためにお働きになるどころじゃないでしょう。それも感謝だし、人間としてふくよかであり得たことの感謝でしょう。だからみんなそれは神に感謝であって、相手に感謝じゃないんです。

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曽野 綾子(その・あやこ)
作家
1931年、東京都生まれ。作家。本名は三浦知壽子。カトリックのクリスチャン。聖心女子大学英文科を卒業後、1954年に『遠来の客たち』で芥川賞候補となり、作家デビュー。1995年から2005年まで日本財団会長を務め、国際協力・福祉事業に携わるほか、2009年から2013年まで日本郵政社外取締役を務める。
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(作家 曽野 綾子)