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現在放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で時代考証を担当している駿河台大学教授・黒田基樹先生は、「秀吉も一代で天下人に成り上がるほど有能な人物であったとみなされるが、それを支えた秀長も、相当に有能な人物であったことが認識される」と語り、その政治手腕に注目しています。そこで今回は、黒田先生の著書『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』から抜粋し、再編集してお届けします。

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秀長の「外交」対象になっていた大名たち

秀長の生涯をみていくと、秀長の政治動向において中心的な役割を果たしていたこととして、「外交」と「領国統治」の問題を認識できる。前者の「外交」は、外様大大名との交流とそれへの取次・「指南」という行為にあたる。具体的に対象になっていたのは、以下の大名たちであった。

織田信雄(1558〜1630)尾張・伊勢半国

徳川家康(1542〜1616)駿河以下五か国

毛利輝元(1553〜1625)安芸以下九か国

小早川隆景(1533〜97)毛利家の一門大名、のち伊予、筑前の領国大名

吉川元長(1548〜87)毛利家の一門大名、出雲戸田領の領国大名

同 広家(1561〜1625)元長の弟で後継者

長宗我部元親(1539〜99)土佐一国

大友宗麟(1530〜87)豊後一国

同 吉統(1558〜1605)宗麟の嫡男で後継者

島津義久(1533〜1611)薩摩以下三か国

同 義弘(1535〜1619)義久の弟で後継者、のち大隅・日向の領国大名

外様大大名を政権に従属させる

まさにそうそうたる面々といってよいだろう。

秀吉の「天下一統」は、これら外様大大名を政権に従属させることですすめられた。


『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』(著:黒田基樹/講談社)

島津家が従属した時点で、秀長が取次に関わっていなかったのは、越後上杉景勝と肥前竜造寺政家にすぎなかった。すなわち秀長は、政権に従属する大大名のほとんどについて、「指南」を務めていたのである。それは秀長が、それらの大名が政権に従属する状態にあることを維持する役割を担っていたことを示している。

なお取次に関わる用語として、取次と「指南」を用いる。取次は普通名詞であるが、取次行為のうち、従属大名に対して軍事的・政治的に指導する役割について、「指南」の用語を用いる。

秀長より年長の大大名も

ちなみにそれらの大大名のうち、大友宗麟・小早川隆景・島津義久・同義弘は秀長より少し年長にあたっていた。

長宗我部元親・徳川家康はほぼ同年齢であり、ここまでは基本的には秀長と同世代とみることができるだろう。


(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

それ以外は、秀長より大きく年少にあたっていた。

そうした年齢の違いを踏まえておくことは、関係性を考えるうえで興味深いだろう。

領国統治

後者の「領国統治」は、秀吉を主宰者とした羽柴(豊臣)政権の首都・大坂の近郊に位置した、大和・紀伊・和泉三か国が対象になっている。これら三か国は、いずれも中世前期以来の強力な寺社権門が多く存在し、さらにこれまで領国大名の統治下に十分に編成されていなかった。

秀長はそれら三か国を領国とし、領国統治を通して領国大名の統治下への編成を果たし、同時に政権の統治下への編成を遂げたことになる。

それらの地域は、領国大名の統治下に十分に編成されていなかったものとして、最後に残された地域にあたっていた。秀長はそれを成し遂げたのである。

※本稿は、『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』(講談社)の一部を再編集したものです。