【都並敏史が語るJ30周年 #1】バブルで浮かれるなか、忘れられない加藤久の言葉。破格の年俸提示には「本当に驚いた」
さらにはその下のジャパン・フットボール・リーグ(JFL)や地域リーグにもJ参入を目ざすチームが続々と現われており、日本のサッカー文化の拡大が顕著となっている。
「サッカーがマイナー競技からメジャー競技になり、その舞台に立てたことを心から感謝しましたし、今もサッカーの一員として仕事をいただけて、貢献できる立場にいることが本当に有難いです」と、61歳になった指揮官はしみじみと30年間を噛みしめていた。
そんな彼がJ発足当初を振り返ると同時に、日本サッカーを取り巻く様々な変化を語った。
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「Jリーグ発足に向けて世の中のムードが大きく変わり始めたのは、92年のヤマザキナビスコカップでした。試合に来る観客の数が急増し、取材に来る記者の数も信じられないほど増えた。そして僕らの給料もドーンと上がりましたね」と都並は笑う。実際、J発足直前から直後にかけての選手の待遇の激変は想像を絶するものがあったという。
80年に読売クラブ入りした都並は、91年までよみうりランドの嘱託社員扱いでプレーしていた。初任給は6万円で、8万円、12万円と上がっていったが、普通の会社員と同レベルか少し高い程度だったようだ。
「91年末にプロ契約を締結しましたが、その時点では年俸ベースで1000万円に行くか行かないかというレベル。個人事業主になるということで、巨人ジャイアンツ担当の税理士がクラブに派遣されてきて、確定申告や税金に関するレクチャーを受けることになったんですけど、最初は戸惑うことばかりでした。
そこから1年後の92年末の契約更改時に年俸3000〜4000万円と提示され、本当に驚いた。浮ついた状態になりました(笑)。なかには1億円という仲間もいたし、周りからもチヤホヤされて、本当に地上から10センチ浮いた状態でプレーしていた感覚でしたね」と、都並は異様な熱気に包まれた当時を述懐する。
まさにお祭りムードに他ならない。そこで苦言を呈したのが、日本代表レジェンドのDF加藤久。彼は都並らにこう言ったという。
「この追い風が危険なんだ。地に足を着けてやらないとダメなんだ」と。
「みんながJリーグブームに浮かれているなか、久さんの冷静な発言はすごく心に残りました。その通り、3〜4年後くらいにはバブルが弾け、経営難に陥るクラブが出てきた。読売も親会社の撤退やチーム内のゴタゴタがあって、下降線を辿っていきました。やっぱり久さんが言うように、右肩上がりの時こそ、地道な努力と歩みを忘れてはいけない。そう痛感させられましたね」
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確かに90年代後半は、マリノスによるフリューゲルスの吸収合併、清水エスパルスの経営破綻など様々な問題が起き、Jリーグの健全経営の必要性が叫ばれた。プロA〜C契約が導入され、選手年俸に一定の上限を設けてクラブの経営安定化を図る動きが加速するなど、個々の待遇面は30年前より厳しくなったと言えるだろう。
とはいえ、Jリーグ初期には日本中に注目されるスーパースターが、その後のサッカー界に大きな影響を与えたことは見逃せない点。華々しい雰囲気が生まれなければ、そういった存在が世に出ることもなかった。
「30年前にはラモス(瑠偉)さん、カズ(三浦知良)、武田(修宏)といったスター選手が何人か出てきて、日本中から注目されました。
彼らはファン・サポーターを大切にし、サインや握手をすることを厭わなかった。メディアとも良好な関係を築いていた。そういう存在に憧れ、Jリーガーになったという選手もたくさんいる。彼らが示したプロとしての姿勢や模範的な立ち振る舞いは、サッカーの地位を高め、その後の選手にもプラス効果をもたらしたと僕は考えています」
都並が現在、指揮を執る浦安も試合後には選手・コーチングスタッフが並んで観客のお見送りをするのが常だという。負けたあとは重苦しいムードになることもあるが、支えてくれる人々を大切にしなければ、クラブが成り立たないと分かっているからこそ、地道な取り組みを大切にする。
都並自身がラモスやカズから学んだことを実践し続けることで、下部リーグの選手たちにも「地域密着の重要性」「サポーター・スポンサーへの感謝」が根付いていく。30年前の生き証人として、彼は先輩・加藤久が強調していた「地に足を着けてやることの大切さ」を肝に銘じながら、日々の仕事に邁進しているという(本文中敬称略)。
※第1回終了(全4回)。次回は日本代表時代やSBに関するインタビューを掲載予定。
取材・文●元川悦子(フリーライター)
