2.2Lにボアアップで250馬力 ジェンセン・ヒーレー 一緒に過ごして半世紀 前編
北米ではダットサン240Zと戦った
1970年代の安全基準と排気ガス規制を満たしたブリティッシュ・スポーツとして、ジェンセン・ヒーレーは望ましい内容に思える。国を代表する2つのブランド名を掲げ、名門ロータスが製造する16バルブ・ツインカムエンジンが載っていた。
【画像】2.2Lにボアアップで250馬力 ジェンセン・ヒーレー 同時期のスポーツカー 240Zも 全131枚
英国オペル、ヴォグゾールのモダンなコンポーネントを流用し、クラシカルな雰囲気でありながら200km/hに迫る最高速度を実現。操縦性にも優れ、1810ポンドという手頃な価格は、オースチン・ヒーレー3000からの乗り換えにもピッタリだった。

ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)
エンジンは賑やかに回転し、カーブを描くボンネットは速度の上昇とともに風切り音を鳴らした。それでも、当初の自動車評論家の反応は決して悪いものではなかった。想定された年間1万台という販売見込みも、甘すぎる数字ではなかったと思う。
3000の後継モデルとして、北米市場では日本からやってきた新参者、ダットサン240Z(日産フェアレディZ)とシェア争いを繰り広げた。年代物のMGBやトライアンフTR6の次を検討するドライバーにも、好適な新モデルといえた。
モノコック構造のボディは、心が奪われるほど美しいスタイリングではないかもしれない。それでも、要求が厳しくなる北米の規制に合致させつつ、まとまりは悪くない。醜いという言葉は当てはまらないだろう。
製造が始まった1972年から、ジェンセン・モータースが破綻する1976年までの間に、1万人以上のドライバーがジェンセン・ヒーレーを選んだ。少なくとも、まったく売れなかったわけではない。
ジェンセンとオーナーの終焉が導かれた
このロードスターは、見た目以外に大きな問題を抱えていた。製造品質は低く、エンジンの開発水準が不充分だったことは、マニアの間では知られた事実だ。加えて、大きな需要に応えられる生産能力が工場にない、という基本的な課題も横たわっていた。
英国で自らのブランドを創業したドナルド・ヒーレー氏がジェンセンの会長を務め、工場の労働者は反抗的で、北米で輸入代理店を営むジェル・クヴェール氏が遠隔でプロジェクトを監視した。スムーズに製造される様子は、想像しにくい。

ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)
1973年には改良版のMk2が登場し、エンジンは調子を整えていた。しかし、その頃にはドナルドは事業から手を引いていた。結果的に投資は不発に終わり、ジェンセン・モータースとオースチン・ヒーレーの終焉が導かれた。
今回ご紹介するクルマのオーナー、ロバート・ヒックマン氏が1976年にスポーツカーを探し始めた頃、ジェンセン・ヒーレーはすっかり存在感を失っていた。悩ましい欠陥が話題に登ることも少なかった。
自分にとって理想的なクルマを欲する、珍しくない若者だったらしい。大学を卒業したばかりで予算は限られ、所有していたMGBを売却したお金を加えても、中古車が関の山だったという。
「1972年式で、71番目に工場で製造されたクルマでした」。地元の中古車店で売りに出ていたジェンセン・ヒーレーを発見した当時を、ロバートが振り返る。
結婚と子育てで乗る機会は大幅に減少
「機械にはある程度詳しかったので、良くない評判を知っても特に驚くことはありませんでした。メンテナンスに、特別な工具を少し準備しています。インチ規格のスパナが必要な場所もありますが、作業自体は難しくありません」
「交換部品はグレートブリテン島の南部、ケルビン・ウェイにあったジェンセンの工場を訪ねて買うこともありました。でもヴォグゾールの部品を流用しているので、その番号がわかれば、比較的身近に安価で入手できるものも多かったんです」

ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)
当初、ロバートは通勤のためにジェンセン・ヒーレーへ乗ろうと考えていた。だが、派手な2シーター・ロードスターは、新卒の若者が会社へ乗りつけるのに適したクルマとはいえなかった。もっぱら、会社からの貸与車両で日々の通勤をこなした。
その結果というべきか、彼のクルマの走行距離は僅かに5万1500kmほど。1981年にはガールフレンドのカレンと結婚し、子供も生まれ、乗る機会は大幅に減ったという。
それでもオースチン・ヒーレー・オーナーズクラブのメンバーとして、彼はジェンセン・ヒーレーを大切に維持し続けた。このモデルに関しては、一目置かれる存在になるべく。
「わたしの父は、ことある毎に運転したいと連絡してきました」。とロバートが笑う。婦人のカレンは、新婚旅行の費用のために売るべきだったわね、と冗談交じりに茶化す。家族でのドライブ時は、子供をシート後方のパーセルシェルフへ座らせたそうだ。
ボアアップで排気量は2.2Lへ拡大
子育てが一段落する2000年代半ばまで、ジェンセン・ヒーレーは殆ど庫内に眠ったままに近かった。定期的にエンジンを動かすなど、必要な気配りはできていなかったと認める。「ボディの塗装は、時間の経過を隠していませんでした」
発起したロバートは、ジェンセンを得意とするガレージを営む、マーティン・ロビー氏へボディの再塗装を依頼した。フロントフェンダーの交換も含めて。「マーティンは、これまで手掛けたなかで最高の状態のジェンセン・ヒーレーだと話していました」

ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)
15週間後、美しい輝きを取り戻しクルマは戻ってきた。しかし5年後、オリジナルのエンジンは寿命を迎えた。下り坂へ駐車しただけでエンジンオイルが漏れたり、燃料供給に不具合が出るという悪評を持っていたことを考えると、良く持ちこたえた方だろう。
走行距離は短かったものの、調子は悪かった。「多くの人へエンジンを見てもらいました。ロータスへ造詣が深いマイク・テイラーさんへ相談したところ、リビルドが必要だという結論に至ったんです」。ロバートが振り返る。
定年を迎え、再びジェンセン・ヒーレーを楽しみたいと彼は考えていた。折角の機会ということで、排気量はボアアップで2.2Lへ拡大することにした。一緒に、トランスミッションもトヨタの5速マニュアルへの交換が決まった。
この続きは後編にて。
