根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第34回
証言者・小川一夫(4)

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 ソフトバンクで三軍制が稼働した2011年。前年まで長く編成の仕事に携わっていた小川一夫が、二軍監督に転身した。小川はダイエー時代にスカウトとして実績を積み、根本陸夫に認められて編成部長に昇進。その後はスカウト部長を務めていた。

 南海時代、選手としては活躍できなかった小川だが、引退後は裏方、コーチ、フロント業務をこなし、あらゆる立場でチームづくりを支えたあとにスカウトになった。ユニフォームに袖を通すのは26年ぶりだったが、なぜその時、現場に戻ることになったのか。現在はGM補佐兼企画調査部アドバイザーの小川に聞く。


二軍監督を経験したことで、視野が広がったと語る小川一夫氏

「伸びしろ」とは何なのか?

「一軍があって、三軍がある場合、二軍が一番の中核になります。三軍との連携、一軍との連絡、フロントとの調整とか、いろんな要素が必要になる。その際、現場しか経験のない人だと、フロントの考えと相当に外れたことをする場合があって、すごく育成に支障をきたすんです。

 そういう意味で、『現場もフロントも経験している人間が適任だ』ということで、僕のところに二軍監督の話がきた。ちょうど僕も一度現場に戻って、育成のことを考えたかったんです。それまで編成部長、スカウト部長として仕事をしながらも、育成は非常に難しいと感じていたからです」

 自分たちスカウトが「いい」と思った選手。いざ入団してうまくいかないこともあれば、思った以上に伸びることもあった。根本からはよく「スカウトだからといって、人の人生なんかわかるわけない。神様だけだ、わかるのは」と言われていた。言われるたびに納得はしたが、現場に行って実態を確かめないといけない、と常々考えていた。

「それはダイエーの時でも、『獲った選手とは一生のつき合いをせい』とか、『最低、一軍に上がるまでがおまえたちの責任だ』と根本さんに言われていたことがありましたから、当然、現場にはちょくちょく足を運んでチームスタッフと話をしたり、担当コーチと話をしたり。でも、それでも選手を育てるのは難しいなと感じていて。だから二軍監督、やってみたかったんです」

 2011年2月の春季キャンプ。小川は二軍と三軍の選手一人ひとりをきちんと見て、寝食をともにした。そのなかには「一芸に秀でていれば育てがいがあるんじゃないのか」と、自らの責任で獲った三軍一期生(10年育成ドラフト指名選手)の新人もいた。1カ月が経ってキャンプを打ち上げた時、はっきりとわかるものが小川にはあった。

「よく、選手の"伸びしろ"って言いますよね。それは結局、頭脳だったり、性格だったり、野球に対する取り組み方だったり、その子の内面的な部分で決まってくるんだとわかったんです。足が速いとか、肩が強いとか、関節がどうとかいうのは、プロのスカウトなら見ればわかるわけです。でも、いちばん大事な"伸びしろ"って、一見してわかりづらいものなんだなと」

"伸びしろ"を理解したことは、二軍の若手を育成するうえでも奏功した。三軍一期生のうち、千賀滉大(投手/蒲郡高)、牧原大成(内野手/城北高)、甲斐拓也(捕手/楊志館高)が一軍で大きく開花したのも、そのことが少なからず関係していたはずだ。

獲得リストになかった千賀滉大

 二軍は勝つことが第一ではないが、小川は監督就任2年目の2012年から2年続けてウエスタン・リーグ優勝という結果を残す。13年にはファーム日本選手権でもチームを優勝に導くと、オフにはフロントに戻り、編成育成部長に就任した。

「その時はある意味、確信を持って、『伸びしろってこういうものだよ』ってスカウトたちに伝えました。内面はわかりづらいものなんだから、いかに調査力が大事か、ということをね」

 調査力とは、グラウンドで目に見えるもの以外、すべてを調べあげる能力と言っても過言ではない。その選手を調べあげる途上では人脈を駆使することもあるわけだが、逆に、人脈のなかから別の選手の情報がもたらされる時もある。小川にとっては、三軍一期生のひとり、千賀の情報ほど貴重なものはなかったようだ。

 巷間で伝えられているところでは、千賀の情報は愛知・名古屋市にある『西正ベースボールショップ』からもたらされた。2010年のドラフトが迫った時期、小川が懇意にしていた店主の西川正二が電話をかけてきて、「ええピッチャーがおるんです。蒲郡高校の千賀っていうんだけども、オレはいいと思うんやけどなあ」と言われたという。

「リストアップした選手の調査がいったん終わった時でした。千賀っていう名前はリストになかった。でも、その年は三軍をつくるんで育成選手を多めに獲ると言われていたし、西川さんが『いい』って言うんだったら、これは見ておかないと。ということで、スカウト3人を行かせて、スピードガンの数字と動画を送ってもらったんです」

 本来なら、小川自ら見に行くところだったが、ドラフト間際に名古屋に入ること自体、避ける必要があった。人の目に触れた場合、ソフトバンクのスカウト部長がこの時期になにをしに来たのか、どこに行ったのか、となって、独自情報ではなくなる可能性があるからだ。

「それでパッと見た時、僕の印象ではすばらしい素材だなと。関節が柔らかい投げ方をしている。球速は143キロ出て、上背もある。ならば普通、ドラフトに挙がるでしょうと思ったら、最終的にはどこの球団も調査に来ていないと。それならと思って、西川さんに『育成だけど絶対獲るから、いっさい表には出さないで』という話をさせていただきました」

全国に散在するボンティアの存在

 プロのスカウトではない人間からの情報を確かめる──。想起されるのは、"根本人脈"だ。もともと、アマ選手の動向を無償で根本に知らせる人物が全国に散在しており、西武時代に「オレにはボランティアがたくさんいるんだ」と言って笑ったこともあったという。

 まさに、西川も「ボランティア」のひとりと言える。高校、大学、社会人のチームのユニフォームや帽子、バッグなどの注文を受ける出入り業者で野球好き。高校、大学で野球経験があり、社会人の軟式でもプレーし、仕事柄もあって東海地区の情報通になった。病気のため2011年に63歳の若さで逝去したあと、息子が店を継いだ。今も小川は名古屋に行くと店に出向くという。

「振り返れば、僕が九州担当スカウトになった頃、福岡の大学、沖縄の高校、至るところにいるのが西川さんだった。最初『この人、誰かな?』と思って。そしたら当時、西武の長谷川一夫さん、城戸則文さん、大先輩のスカウトの方たちとつき合いがあったんですよ。西武が抑えの豊田清を獲ったのも、西川さんの情報でしたから。この人すごいなと」

 じつは、元は西武だった。その頃から小川も西川と接する機会はあったが、西武とのつき合いがあるために静観していた。しばらくして、長谷川と城戸が高齢のためにスカウトを退くと知り、機を見て西川に声をかけた。そこから始まった「深いつき合い」が、のちに日本を代表するエースへと成長した千賀の情報にもつながったのだ。

 2018年、小川は二軍監督に復帰する。その2年前、二軍・三軍の専用球場と練習施設が、新たに福岡・筑後市に造られたことが契機となった。そうして20年まで3年間、務めたあとに現職に就任したが、その時、三軍制が始動してちょうど10年が経過していた。

「やっぱり、根本的には、いかに素材のいい選手を獲れるかなんです。もちろん育成の仕方、システムも大事なのは間違いないですよ。でも、素材がよくなかったらどうしようもない。もちろん、素材がいいのになかなか育たないということもありますが、素材がいい選手のなかから何パーセントかの確率で出てくる、という話であって、よくなかったら出てこないんです。

 だったら、素材のいい選手が確率高く出てくるように、さらに育成をきちんとしようということは、ウチがこの10年間でつくってきたものだと思います。そして、素材のいい選手を獲るには、自分の目を信じて、能力を見抜いて、人脈を駆使する。これも根本さんから言われていたことです」

 小川が師と仰ぐ根本が逝去して、23年が経った。その間、ホークスは9度の日本一を達成し、今や「世界一」を目指している。根本もさすがにそこまでは発想しなかったかもしれないが、現在も球団にその功績が残っているとしたら、それは何だろうか。

「王(貞治)会長の存在じゃないですか。根本さんが王さんを監督として招聘して、そこから強い球団をつくっていくなかで、『日本一になるんだ』という目標があったから、僕らも頑張れた。そういう環境に身を置けるのが幸せなんだと思うし、根本さんと出会って、今もトップにおられる王会長と仕事ができているのは、僕の人生においては途轍もない財産ですから」

つづく

(=敬称略)