私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第6回
W杯で輝けなかった「エース」の本音〜中村俊輔(4)

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「シュンスケ、いくぞ!」

 2010年南アフリカW杯グループリーグ第2戦のオランダ戦、中村俊輔は後半19分から途中出場した。オランダに1点リードされた状況の中、日本代表の岡田武史監督は点を取りにいくために、中村をファーストチョイスとしてピッチに送り出した。

 ここで点に絡む活躍ができたら、中村は松井大輔と右サイドのポジションを争うことができたかもしれない。だが、中村は何も結果を残せず、自身の存在をアピールすることさえできなかった。チームも、そのまま0-1で敗れた。

「(オランダ戦で)試合に出たけど、ぜんぜん地に足がついていなかった」

 これ以降、岡田監督から中村に声がかかることはなかった。


オランダ戦で途中出場するも、見せ場を作れなかった中村俊輔

 チームが勝ち進むなか、いち個人としては”サブ”という世界で悶々(もんもん)とした毎日を過ごしていた。本来であれば、ミックスゾーンで試合を分析するなど、取り囲む報道陣を相手に多くを語っていたはずだが、中村が口を開くことはほとんどなかった。

「試合に出ていないし、メディアのほうも声をかけていいのか、悪いのか、微妙な空気になっていたからね。かといって、俺に聞くこともないだろうし、俺も話をしたくなかったから」

 何かしら話をし出したら、感情が込み上げて爆発してしまう怖さもあった。

 試合後に報道陣とかわす話は、試合での自分のプレーや考えを整理したり、彼自身の”ガス抜き”でもあったりしたが、それもなくなり、ストレスは溜まる一方だった。

 そうした状態にあって、中村は先を見ることで、自分の気持ちを落ち着かせていたという。

「このまま帰ったら、『W杯で活躍できなかった10番』『もう終わった選手』って言われる。でも、『このまま落ちていくんだろうな』っていうふうには、絶対に思われたくはなかった。そこで、『これは下を向いている場合じゃない』『1、2年先を考えるところからスタートしないといけない』、そう思った。

 それから、サッカーノートを見たり、筋トレを多めにしたりして、『帰国したら、こういうプレーをしよう』とか、毎日いろいろと考えていた。逆に言うと、そう考えることでしか、自分を保つことができなかった」

 それほど、ベンチでの日々はつらかったのだ。

 ただ、振り返れば中村は、いつも前を向いて”少しでもうまくなるため”、真摯に練習に取り組んできた。エスパニョールで試合に出られなかったときもそうだった。

 試合後、ひとりでピッチ外を走っていた。その際、「アイツ、試合が終わってからウォーミングアップを始めたぞ。大丈夫か?」と、冷たい視線で見るファンや関係者がいたが、中村は気にせずに黙々と走っていた。

「南アのW杯のときも、みんながシャワーを浴びているとき、俺は走っていた。悔しいし、惨めだけど、他の選手は試合をしたけど、俺は試合に出ていないから。そこで休むと、どんどん差が開いていく。それが嫌なんで、きついけど、走っていた。

 そのうち、岡崎(慎司)とか、森本(貴幸)とかが来て、一緒に走るようになった。苦しくて、もがいているときが一番伸びるときだから。それにしても、今考えると(あのときは)すごくもがいていたなと思う」

 中村は息を吸って、大きく背筋を伸ばして、そう言った。

 中村のサッカー人生で、最ももがき、苦しんだ時間だった。

 一方で、チームは決勝トーナメント進出。その1回戦でパラグアイにPK戦の末に敗れたが、2002年大会以来となるベスト16入りに日本国内は大いに沸いていた。

 最後の試合も、中村の出番はなかった。

 振り返ってみれば、2006年ドイツ大会、2010年南アフリカ大会と、中村は「10番」を背負いながら、主役を演じることができなかった。

 南アフリカ大会でもチャンスを与えられたが、そのチャンスを生かせなかった。個人的には何も成し遂げることができないまま、W杯の舞台から去った。自らへの期待も大きく、W杯は夢の舞台だっただけに、そこで輝けなかった自分への失望感は胸の中で大きく膨らんだ。

「W杯では、俺はカスでしょ。ドイツでは輝けない。南アはベンチ」

 自らを突き放すように中村は言った。

「(W杯では)何もできなかったからね。今思うのは、自分でもよくわからないんだけど、W杯みたいな大舞台になると、おかしくなる。なんで俺、こんなにうまくいかないんだろうって思った。何かに取り憑かれているのかなって……。

(最終的にメンバーから外れた)日韓共催大会も含めて3大会だからね。でも、最終的に思ったのは、トータルで実力不足だったということ。ズバ抜けている選手になっていれば、こんなことは起きないから」

 どんなにクラブで輝いても、代表チームやW杯で輝けない選手がいる。だからといって、彼のことを「実力がない」とは誰も言わない。中村は、W杯にほんの少しだけ、縁がなかったのだ。

 実際に南アフリカW杯後、多くの人が中村は「これで終わり」と見ていたが、中村はその後も輝きを失うことはなかった。見事なリスタートを果たして、所属の横浜F・マリノスで存分に力を発揮した。

 とりわけすごかったのは、2013年シーズンだ。33試合に出場して10得点を記録。チームをリーグ戦2位に押し上げる原動力となって、JリーグMVPを獲得した。さらに、天皇杯でもチームを21年ぶりの優勝へと導いた。

 苦悩のW杯後、中村は「終わる」どころか、一層レベルアップし、自らの存在価値を高めたのだ。

 そのとき、中村は南アフリカW杯で苦しんだ日々を思い出したという。

「南アから3年後、スタッフにも恵まれてMVPを獲ることができたのは、あのとき、諦めたり、腐ったりしなかったから。あそこで、次に向かって準備することができたからだと思うんだよね。だから、今もこの年齢までプレーすることができている。

 ああいう苦しいとき、落ちたときこそ、チャンス。きついけど、そのときにいかに前を向けるか。その差があとになって、大きな差になって出てくる」

 W杯で活躍した選手は一瞬、眩(まばゆ)い光の中で輝く。だが、選手として本当に評価されるのは、その後もいかにその輝きを持続できるか、あるいはさらなる輝きを発せられるか、にある。

 中村はW杯では輝けなかったが、屈辱の1カ月を糧にして、その後の自分を輝かせた。それができたのは、やはりW杯を抜きにしては語れない。

「日本代表チームに求められるものは、いつの時代も同じだと思う。チームがひとつになって、(選手個々が)犠牲心とお互いを尊敬する気持ちを持って戦うこと。

『そんなもんいらないでしょ』っていう人もいるけど、チームは人と人とでできているんで、そういう気持ちがないといけない。今の代表も、そうであってほしいと思う」

 中村は祈るような眼差しでそう語った。

 あのとき「もう終わりだな」と囁かれた中村は、今なおジュビロ磐田の主力としてボールを蹴っている。その姿は、苦い経験をしたすべての人を、これからもずっと勇気づけてくれるに違いない。

 中村が日本代表引退後、2度目のW杯がまもなく始まる。

(おわり)

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