(※写真はイメージです/PIXTA)

写真拡大

65歳のリタイアは人生の大きな区切り。40年以上におよぶ会社員生活を終え、夫婦2人の穏やかな老後を迎えるはずでした。しかし、退職前に勃発した“非常事態”――。豪華な手料理とケーキ。定年を祝うはずのご馳走が、なぜ夫婦の「最後の晩餐」になってしまったのか。見ていきましょう。

定年まで残り3日…まさかの宣告

定年退職の日をあと3日後に控えた日の晩酌時。機械メーカーに40年以上勤め上げた木村武志さん(仮名・65歳)は、上機嫌でビールを煽っていました。

「これからは毎日休みだ。夫婦で旅行でも行くか」

そんな武志さんの言葉を遮るように、妻の妙子さん(仮名・65歳)が静かに1枚の封筒を差し出しました。中に入っていたのは、近所の賃貸マンションの契約書。

「ちょっと早いけれど、長い間お疲れ様でした。それでね、私、ここを出ようと思うの。これからは別々に暮らしましょう」

唖然とする武志さんに、妙子さんは穏やかな表情で続けました。

「今さらモメてエネルギーを使うのは、お互い嫌よね。だから、“卒婚”したいんです」

妻を追い詰めた「24時間一緒」という恐怖

武志さんにとって、この申し出は青天の霹靂でした。しかし、妙子さんにとっては、数年、いや十数年かけて積み重なった不満の結果でした。

武志さんは典型的な仕事人間。平日は早朝から深夜まで働き、週末も仕事の付き合いや出張で、あまり家にいませんでした。家事や育児はすべて丸投げ。たまに会話をしても、まったく噛み合いません。

「子どもが自立してからは、2人の時間が辛くて。夫が出かけないときは、『予定がある』って私が外に出ていました」

これまで、少なくとも、平日は夫が家にいないという物理的な距離があったからこそ、夫婦の形を保てていたのです。しかし、夫の“完全リタイア”が迫るほど、妙子さんは猛烈な恐怖に襲われました。

「この人が1日中家に居座るようになる。何もしない夫の3食の飯を炊き、顔色をうかがう毎日が死ぬまで続くのか――」

これまでは不満があっても、「見て見ぬふり」をする、ある種の鈍感力で添い遂げてこられました。しかし、定年というタイムリミットを前に、妙子さんは自分の本音と向き合わざるを得なくなってしまったのです。

一方で、すぐさま離婚という決断も躊躇しました。友人夫婦が離婚でモメにモメたことを知っていたからです。また、離婚は原則として双方の同意が必要です。妙子さんの一方的な希望では通らない可能性がある。そして、金銭的なデメリットもある――。

その結果の選択が「卒婚」でした。

それでも、「自分の考えは間違っていないのか」「本当に夫との生活を捨てていいのか」。妙子さんは慎重でした。その結果、伝えられたのが、夫のリタイアの3日前だったのです。

 夫婦の距離を置く「卒婚」…離婚との違い

妙子さんが希望した「卒婚」とは、法律上の婚姻関係を維持したまま、生活の拠点を別にする夫婦の形です。

厚生労働省の「人口動態統計月報年計(概数)の概況」によれば、令和6年の離婚件数は18万5,895組(前年より2,081組増)。このうち婚姻期間20年以上の熟年離婚は4万686組(前年より876組増)にのぼります。

ただ離婚となると、預貯金や不動産、退職金を原則2分の1ずつ清算する「財産分与」や「年金分割」など、膨大な時間と労力がかかります。さらに離婚すれば配偶者の相続権も消滅します。しかし卒婚の場合、法律上は夫婦のままなので、面倒な資産清算の手続きは後回しにできます。

また、収入の多い側(夫)は、別居中であっても妻に生活費を支払い続ける法律上の義務があります。妙子さんは、夫から離れて暮らしながらも、生活費を受け取れるわけです。

妙子さんは、夫を傷つけて離れたいわけではありませんでした。そして、モメたところで得はないという冷静さもありました。「あんたと同じ空気を、これ以上吸いたくない」――そんな本音はそっと胸にしまい、こう伝えたのです。

「長い間、働いてくれたことには感謝しています。でも、今まで、あなたは家事も料理も全部私に任せきりでしたよね。これからは毎日、あなたがずっと家にいる。申し訳ないけれど、私はあなたの『定年後の面倒を見るお世話係』になるために結婚したわけじゃないの。これからの残りの人生は、自分のために時間を使いたいです。もうマンションも契約してきました」

花束とケーキ、豪華な手料理…夫婦の「最後の晩餐」

武志さんは、心の整理ができないまま最終出社日を迎えました。同僚や部下の「長い間お疲れ様でした」という声にも、作り笑いを浮かべるのがやっとです。

家に帰ると、妙子さんは花束とケーキ、豪華な手料理で迎えてくれました。妻として、これまで武志さんに支えてもらった感謝がないわけではなかったからです。しかし、こうして夫婦で節目や記念日を祝うのは最後かもしれない……。武志さんは、せっかくの料理の味もよくわかりませんでした。

武志さんの年金は月約25万円(公的年金+企業年金)。世間一般から見れば恵まれた額ですが、妙子さんへの生活費(婚姻費用)として毎月10万円を仕送りすることに同意しました。

妙子さんの手元には、自身の年金と合わせて月約20万円が入り、足りない分はパートを増やして、やりくりしていく予定です。また、パート代からコッソリ積み立てていた“内緒のへそくり”も多少はあるといいます。

夫のいない自由な空間を手に入れた妙子さんの表情は、実に清々しいものでした。

「夫が別居を受け入れてくれたこと、ありがたいと思っています。先のことはわかりませんけどね。でも、独身時代以来のひとり暮らし。大変かもしれませんが、今はワクワクしています」

一方、月15万円の年金が残る武志さん。貯蓄も3,000万円ほどあるため、金銭的に困ることはありません。しかし、待ち受けていたのは、静まり返った家と、慣れない家事、そして圧倒的な孤独でした。

「あそこで引き留めても、余計に嫌がられるだけでしょう? 卒婚……まだ離婚じゃない。一度離れて落ち着いたら、戻ってきてくれる。そう信じて待つしかありません」