「進次郎構文はもう笑えない」防衛大臣の軽い言葉が“国家の意思として読まれる”最悪のシナリオ
◆「進次郎構文」はかつて笑える余地があった
拙著『政治家の「答えない」技術』では、小泉進次郎氏の構文を「政治家構文」の代表例として批判した。理由は、彼の言葉が明るく、前向きで、耳ざわりがよいにもかかわらず、肝心の意味がつかみにくいからである。何かを言っているようで、よく読むと具体的な内容が残らない。抽象語が並び、雰囲気はあるが、政策の輪郭は見えにくい。そこに小泉氏の言葉の魅力と危うさが同居している。
当時の「進次郎構文」には、まだ笑える余地があった。環境政策やライフスタイルを語る場面では、その曖昧さはどこか若さや演出として消費されていた面もある。言っているようで言っていない。意味は薄いが、雰囲気は明るい。そうした小泉氏の言葉は、政治家構文のなかでも、もっとも分かりやすく、もっとも親しみやすい標本であった。
◆防衛大臣になると、同じ構文が「失言の一歩手前」になる
ところが、防衛大臣になってからの進次郎構文は、以前と同じようには笑えない。環境政策の場であれば、多少のポエムも政治的な演出として受け流せたかもしれない。しかし防衛大臣の言葉は、自衛隊の位置づけ、武器輸出、同盟国との関係、戦争と平和の境界に触れる。軽い言葉が、重い職務に乗った瞬間、構文は失言の一歩手前まで近づく。
象徴的なのは、オーストラリア訪問に関連したX投稿である。小泉氏は、海上自衛隊の海上幕僚長とオーストラリア海軍幹部の関係を「軍人同士の友情」と表現した。記者会見でその真意を問われると、小泉氏は自衛隊は通常の観念で考えられる軍隊とは異なるという政府見解を示したうえで、国際法上は軍隊としての属性を備えているとも説明し、「国民に分かりやすく伝える観点から軍人同士と表記した」と述べている。
ここに、進次郎構文の本質が表れている。「分かりやすく伝えるため」という言い方は便利である。本人は親切な説明をしたつもりかもしれないが、防衛大臣が自衛官を「軍人」と呼ぶ場合、その一語は単なる言い換えでは済まない。日本国憲法、自衛隊法、政府見解、国民感情が絡む言葉である。分かりやすさを優先したつもりが、むしろ制度上の微妙な境界を粗く扱ってしまう。これを私は「分かりやすさによる乱暴化」と呼びたい。
◆危機対応でも「責任の中心」が拡散していく
もう一つ目立つのは、危機対応時の答え方である。イラン情勢をめぐる臨時会見で、小泉氏は自衛隊機派遣など邦人退避の具体的支援態勢について問われ、「部隊の詳細な運用は現時点では差し控える」と述べた。さらに米国の軍事行動を支持するのかと問われると、「官房長官や外務大臣の発言に沿って、政府全体としてはそういう立場」と答えている。
もちろん、防衛大臣が作戦の詳細を明かせないのは当然である。問題はそこではない。小泉氏の答弁では、主語がすぐに防衛省、自衛隊、関係省庁、政府全体へ広がっていく。自分の判断を問われても、政府全体の立場へ移す。これは安全保障上の慎重さでもあるが、構文としては、責任の中心を拡散させる典型的な答え方である。
