毛皮のマリーズ時代

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 ロックバンド「ドレスコーズ」の志磨遼平(44)が最新映像作品となる「grotesque human」を今年3月に発売した。昨年7月にZepp Shinjukuで行われたライブの興奮が蘇る一作だ。常に周囲を驚かせてきた男に、ここにたどり着くまでの道程を聞いた。

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親世代の文化に惹かれ……

 幼少時は、親の影響で少し上の世代の音楽に親しんでいたという。

「親が好きな音楽を家で聴かせてくれていて、考えてみると、自分が今やっていることと割と近かったりもするので、影響は受けているんだろうなとよく思います」

 聴いていたのはビートルズ、そして浅川マキだった。

毛皮のマリーズ時代

「浅川マキさんのデビューにすごく関わられていたのが詩人の寺山修司さん。プロデュースに近い関わり方をされていたと聞いています。多くの曲で寺山さんが作詞を手掛けている。幼少時の自分がどう思っていたかは覚えていませんが、物心がつく前からビートルズや寺山さんというようなものに触れていたんだなあと、後から気付きました」

 親世代から教わった音楽や文化などが、のちのち自身が惹かれるものになる経験を持つ人も多いが、志磨の場合はまさにそれ。自身が生まれる前の時代の、知らないはずの音楽などにも懐かしさを感じていたという。

 その一方で、楽器には一切触れてこなかった。

「楽器の素養は全くなくて、どちらかというと苦手でした。野球少年でしたし、漫画を描くのも好きでした。学校の内外で絵を褒められることも多かったので、親は僕が美大に進んで絵の道に行くんじゃないかと思っていたらしいです」

イエモンとジュリー 「自分の中にあるものを爆発させたい」

 だが、中学時代には友人に誘われてバンドを組んだ。

「友人の影響で、『THE YELLOW MONKEY』のライブビデオを見たんです。イエモンを見た瞬間、それまで音楽をやろうなんて一度も考えたことがなかったのに『これになりたい!』と思ったんです。そもそもうちの母親が沢田研二さんを好きだったことも影響していますね。小さい頃、テレビで懐かしの歌謡曲の番組なんかに若い頃の沢田さんが映ると母親が『ジュリー! ジュリーだよ! きれいでしょ?』と騒ぐんですね(笑)。だから、メイクをしている男の人をきれいだと思う感覚が、早くに備わっていたんだと思います」

 それまでに自身の“資質”や“特性”について考えていた経験も、手伝ったのかもしれない。

「学校では優等生で通っていましたが、ただずる賢いだけだったんです。本当は不真面目で、嘘つきで、人の目ばかり気にしておべっかを使う、子どもらしくない子どもでした。いつも本心を隠して、親に対しても、学校の友達や先生に対しても、うまく繕って振る舞っていました。でも自分の内部には、人とは違って、爆発する恐れのあるエネルギーみたいなものがあるのは分かっていたんです。屈折して抑え込まれていて、マグマのようにふつふつとしたもの。それがいつか爆発しそうで、爆発すれば人生が取り返しのつかないことになる予感がありました。ところが吉井和哉さんの姿は、僕と同じような屈折した恐ろしいエネルギーを爆発させることでこんなに輝き、歓声やスポットライトを浴びている。それが僕の目にはすごく美しく見えて、僕もこうなりたい、健全ではないものを爆発させてみたいと思うようになりました」

 深遠な世界が志磨少年の内部に広がっていたのではないかと推察する以外にないが、イエモンとの出会いがアーティストになる一歩目を踏み出させたことだけは間違いないようだ。

和歌山のスタジオでヘッドハンティング

 普通ならば、ここから学内外の友達とバンドを組んで音楽の道へ……というような話に進みそうだが、そこからの考え方も変わっていた。

「バンドを作る前に、まず学校をやめようと。音楽のために僕は生きていく。それならもう学校に通う必要もないと考えて。メンバーを探すとか、楽器の練習をするとか、そういうことよりも前にまず学校をやめました」

 高校に入学し、まだ1学期が始まったばかりでのことだった。地元の和歌山市に楽器店とスタジオが併設されている店があり、すでにその店に通い詰めている常連だった。

「よく学校をサボっては、そこの店長さんに身の上話を聞いてもらっていたんです。『学校をやめて音楽に専念したいんです』とか。それである日『ついに退学届を出してきました』って報告したら、『じゃあ、明日からうちで働くか』って言ってくれたんです。『親もずいぶん心配してるでしょ? うちで毎日ちゃんと働くって言えば、親も安心するだろうし、志磨君も音楽に専念できていいんじゃない?』と言って、次の日から店番を任されたんです」

 和歌山市のバンドマンがこぞって集うスタジオだった。

「スタジオでよく見かける人たちの中から、メンバーをヘッドハンティングしました(笑)。歳が近くて、演奏が上手いと噂になっているような人に声をかけて。そこでバンドを組みました」

 ギターはあの子が上手いらしいとか、ベースはあの子、ドラムは……と目星をつけながら、自身は曲作りに着手していた。曲のレパートリーの多彩さを武器に「僕と組んで有名になろうよ」とメンバー探しを続けた。趣味でバンドをやっているのではなく、「学校をやめてスタジオで働いている」ことから、志磨自身も一目置かれる存在になっていたこともメンバー集めに有利に働いた。

腕を組んでうーんと唸ると……曲が

 ところで、「楽器は苦手だった」と語る志磨が、どのようにして曲作りをしていたのか。

「これは今でもそうなんですが、腕を組んで、うーんと唸って、ぽんと出るっていう……。これはホントにそうとしか説明できないんです。まだ今のようにギターやピアノが弾けるわけでもなかったので、ただひたすらに『自分には曲が書けるはずだ』と思い込んでいたら、ある日ポンと曲ができた。それが今でも続いているんです。格好よく言えばメロディーが降ってくる、という感じでもありますが」

 そんなスタイルの曲作りで、「1日1曲は作ろう」と決め、カセットレコーダーに出来上がった曲を吹き込んでいく作業を続けていた。

美輪明宏の「紫の履歴書」を読んで

 バンドは、ライブハウスが少ない和歌山を飛び出し、大阪、京都、神戸のライブハウスにデモテープを送り出演し、活動範囲を広げていた。だが、“その先”にはなかなか進めなかった。

「地元では『大阪のライブハウスで演奏している』というだけでみんなからおだてられていたので、さてこの先、どうしたもんかなと思いながら18歳頃まで和歌山で相変わらずアルバイトを続けながら曲を作ったりしていました。それが、ある本に出会って居ても立っても居られなくなったんです」

 それは、美輪明宏が書いた「紫の履歴書」という自叙伝だった。書店で偶然見つけたその本に記された美輪の激動の半生に触発された。

「僕もこういうドラマチックなことをしないと、と考えて。読み終えた勢いのまま、バンドメンバーに『明日から東京に住むよ』と伝えました。メンバーはびっくりですよね」

 東京にはほぼ伝手もなかったが、その日の夜行バスに乗り、翌日には東京・新宿に降り立っていた。東京の大学に進学した昔の友人に頼み込んで泊めてもらい、しばらくして一人暮らしを始めた。

 そのうち、和歌山で同級生だったギタリストの越川和磨とベーシストの栗本ヒロコが志磨を頼って上京してきた。そこに友人のドラマーを加えてバンド「毛皮のマリーズ」は2003年に一度結成された。だが後にドラマーが不在となり、オーディションをすることになった。

「何年かけてそこらじゅうを探しても、自分たちが理想とするドラマーがどこにもいないので、一から育てるほうが早いんじゃないかという話になり、越川のバイト先にいた面白い子をスタジオに呼んだんです」

 ところがその人、富士山富士夫は特段ドラムが上手いわけでもなく、素質があるわけでもなかったという。

「もう感覚的なものです。ユーモアのセンスが合うとか。そういうことのほうが僕にとっては重要でした。そこが合ったので、一緒にバンドやろうって」

 2005年、「毛皮のマリーズ」がリブートした瞬間だった。

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 突然の退学、上京を経てようやくデビューにたどり着いた志磨遼平。第2回【「下手になったら人気が出た」志磨遼平が明かす毛皮のマリーズ解散、ドレスコーズ結成の舞台裏】では、毛皮のマリーズ、ドレスコーズでの活動などについて語っている。

デイリー新潮編集部