小野光希選手

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 2月に行われたミラノ・コルティナ五輪のメダルラッシュは記憶に新しいが、その中でも、合計9個のメダルを手にしたスノーボード陣の活躍は、とりわけ目覚ましいものだった。女子ハーフパイプで銅メダルを手にした小野光希(おの・みつき=22=)選手は、今年3月に早稲田大学スポーツ科学部を卒業し、エネルギー開発企業・INPEXのアスリート社員として新生活をスタートさせた。文武両道を貫きながら、二度目の挑戦で五輪の表彰台に登った小野選手に、幼少期や学生時代のエピソードを伺った。【ライター・白鳥純一】(全2回のうち第1回)

【写真】文武両道を貫き「ミラノ五輪銅メダリスト」に 自らの経験を語る小野光希選手の姿

姉に負けるのがとにかく悔しい

「まだ慣れないことばかりですが、色々なバックグラウンドを持つ皆さんと共に刺激的な毎日を過ごせています。今後は仕事をしながらトレーニングに打ち込むハードな日々を送ることになりそうですが、自分のペースを大切にしつつも、さまざまなことに全力で取り組んでいきたい」

小野光希選手

 新たな環境で過ごす日々に意欲を見せる小野光希選手は、2004年3月に埼玉県吉川市で誕生した。両親と2歳上の姉の4人家族で、「小さい頃から負けず嫌いで気が強かった」という光希選手は、バンクーバー五輪に感銘を受けた5歳の時にスノーボードを始めると、常に自身の前を進む姉に少しでも迫ろうと、その背中を追うようにして、必死に練習に励んだ。

「当初は冬の雪山は寒く、私自身もあまり上手に滑れなかったこともあり、スノーボードがあまり好きではありませんでしたが、姉に追いつけないことがとにかく悔しくて、その気持ちが練習に向き合うモチベーションに繋がっていたように感じます」

転んだ選手よりも点数が低かった

 小学校2年生の時にハーフパイプに転向した小野選手に休日には各地のスキー場、雪の降らない時期には川崎市内の室内練習施設(※現在は閉鎖)に姉と一緒に電車で2時間かけて通い、自身の滑りに磨きをかけた。

「私の両親は、競技に関して否定的なことをまったく言わないタイプで、そのおかげでスノーボードを嫌いにならずに続けてこられたと思うので、本当にありがたかったです」

 そう幼少期を振り返る小野選手は、日々の地道な努力が実り、中学1年生の時にアメリカで開催されたBURTON US OPENジュニアジャム(2017年3月)での海外デビューを優勝で飾ると、翌年も大会を制覇。2018年9月にはジュニア世界選手権(ニュージーランド)で優勝を手にし、こちらも翌年も優勝し連覇を成し遂げた。

 ユースでの輝かしい実績を残して勢いに乗る小野選手は、多くの視線を浴びる中で、シニアの大会に挑んだが……。さまざまな課題が露わとなった。

「私は技をしっかり決めているはずなのに、滑走中に転んでしまった他選手の点数の方が高くて。自分の立ち位置をある程度は理解していたつもりでしたが、これまでとはレベルの違う周囲の滑りにただただ圧倒され、焦りを感じずにはいられませんでした」

 だが、悔しさを味わって気持ちに火がついた小野選手は、本格的なウエイトトレーニングに取り組み、かねて得意とする高いジャンプと、苦手な回転技に磨きをかける。

 その成果が実った翌シーズンには、ユースオリンピック(2020年1月・スイス)でも金メダルを獲得。この年から本格参戦を果たしたW杯でも、2月のカナダ大会で2位に入るなど、挫折を乗り越えてトップ選手に名乗りをあげた。

陸上部から文芸部に転向した意外な理由

 スノーボードで若き才能を開花させ、世界に羽ばたいた小野選手だが、シーズンオフには日本で充実した学生生活を過ごした。

 小学生の頃には、走力の速さを買われて徒競走のリレーの選手に選抜され、運動会で颯爽とした走りを見せたことも。またある時は、世界の偉人について描かれた漫画を読み耽り、教養を深めたという。

 中学校では「何かしらの部活をやらないといけなかった」事情もあって、一度は陸上部に籍を置いたものの、同時期にスノーボードの活動が本格化したこともあり、ほぼ活動には参加できなかったそう。中学の時には、多忙な日々を過ごす小野選手の姿を見た先生が、同氏が顧問を務める文芸部に招き入れることに。

 転部の理由は「入部すれば図書カードがもらえる」という安直なもので、ここでも残念ながら、部活への参加は叶わなかったが、自身の境遇に理解を示してくれた先生の優しさに触れたことが、「スノーボードの大会を主催していて、馴染み深い存在」と話す東野圭吾らの作品に傾倒するきっかけになったそう。

外国では学校で習う英語を使わない

 また、この頃から海外を転戦するようになった小野選手は、次第に英語に関心を持つように。

「学校で習う英語は、あくまでも“ テストに向けたもの”で、現地ではほとんど使われていないことに当初は驚かされた」というが、それでもアメリカのテレビドラマ「ゴシップガール」(2007〜2012年)をはじめとする海外作品を見ながら英語に触れ、「文法や単語をひたすら暗記するような感覚」で語彙力を高めていった。

 スノーボードで活躍を続けながらも、中学校で学内上位の成績を収めた小野選手は、卒業後は「ナショナルトレーニングセンター(東京都北区)に通いやすく、iPadで授業を受けられるプログラムが整っていて、可愛らしい制服が魅力だった」という成立学園高校の一般コースを受験し、見事に合格。入学当初はコロナ禍の影響により、友人との接点は限られていたが、それでも高校選手権に3度出場のサッカー部をはじめ、多くのアスリートが集う環境で過ごす日々の中で、小野選手はさまざまな刺激を受けたそう。

 学業面においても、冬場には遠征で学校に通う機会は限られていたものの、その成績は常に1位をキープ。遠征中も就寝前に課題に取り組んだり、得点源の暗記科目とは対照的に「赤点をギリギリで回避するくらい苦手だった」という物理や数学は、理系に進む友人に教えてもらったりして、その時々の弱点克服を目指した。

受験生と競技を両立し、初めての五輪に

 充実した高校生活が佳境に入る2021年秋には、早稲田大学スポーツ科学部の「トップアスリート入試」を受験。

 北京五輪の代表争いの渦中で、小論文と面接による本試験に臨んだ小野選手は、面接官の前で「スポーツと勉学をどのように両立させるか?」や、早稲田大にゆかりのあるアスリートに関する質問に答え、見事に合格を掴み取った。

 一方の競技においても、W杯・Laax Open(スイス)で2年連続の2位にランクインした功績などが認められ、北京五輪(2022年)の代表に選出される。

 自身初の五輪でも、緊張を感じさせない勢いのある滑走を見せ、予選を2位で通過し、上々の滑り出しを見せたものの、決勝では高難度の「キャブ1080(3回転)」で転倒。失意の9位で大会を終え、思わぬ形で挫折を味わうこととなった。

 第2回【スノーボード「小野光希」がミラノ五輪でメダリストになれた理由 日本勢のメダルラッシュで「一気に集中力が高まりました」】では、17歳で北京五輪出場を果たすも、満足な滑りができず、9位で終わった時の心境や、そこから4年間をどのように過ごし、ミラノ五輪で結果を出したのかについて、また、今後の目標についても伺っています。

デイリー新潮編集部