「ラグビーって…ええなぁ」 悲運の闘将・宮地克実の真相…敗北の果てに辿り着いた“肯定”
追悼・宮地克実さん――忘れられぬダミ声「この前のトライ、ノッコンちゃうかぁ」
1987年の第1回ラグビーワールドカップ(W杯)で日本代表を指揮し、社会人の三洋電機(現リーグワン・埼玉ワイルドナイツ)で監督を務めた宮地克実さんが4月25日に亡くなった。85歳だった。三洋時代は就任初年度の1988年度から神戸製鋼の日本選手権7連覇がスタート。在任中は一度も日本一に届かず、「悲運の闘将」とも呼ばれた。ラグビーライターの吉田宏氏が故人を悼み、その功績を記した。
◇ ◇ ◇
宮地克実さんが天国に召された。
85歳。
慌ただしく出向いた通夜では、三洋電機時代からの選手、関係者、同じ時代にプレーしたと思しき年代の方々、そして対戦相手関係者や大学指導者と、様々な立場で故人と接点のあった人たちが集まっていた。京都から駆け付けた三洋OBもいた。
喪主を務めた長男・克徳さん。ラグビーはもちろんだが、父を継いだ造園業、そして映画プロデューサーという挑戦でもお付き合いがあったが、こんな話をした。
「長く闘病して、苦しんでという最後じゃなかったのは、本人のためにも良かったです。ラグビーのない時間は辛いだろうし、よくここまでという気持ちです」
介護施設には1年以上前から入っていたと聞くが、最近まで至ってお元気だったと聞いた。亡くなる3日ほど前には、宮地さんが息子のようにかわいがったビル(シナリ・ラトゥ=ラトゥ志南利)の奥さん、アメリアもお見舞いに行ったが「すごく元気でお話もした。こんなに早く亡くなるなんて考えてもいなかった」と話すように、誰も予想していない中で、静かに息を引き取ったと聞いた。
「まるで、バナナの叩き売りのおっさんだな」
初対面は、失礼ながらこんな印象を胸の内で呟いたように記憶している。
真っ黒に日焼けした顔に、ダミ声。それも、大声で、ああだこうだとしゃべくりながらやって来たのが宮地さんだった。
熊谷移転前の群馬・太田のワイルドナイツグラウンド。時間があれば平日の練習を覗きに何度も通ったが、既に勇退していた宮地さんとも、ほぼ毎回顔を合わせていた。“本業”となって久しい造園会社の“業務”と託けてはいたが、現在ワイルドナイツGMを務める粟屋悟は「それ口実にしていただけ」と笑う。会社で請け負うグラウンドのメンテナンスやチェック、グラウンド周辺の植え込みの剪定などを理由に、チームを、選手を間近で見守り続けた。
宮地さんの場合は、グラウンドに姿を現す前から、いつも「ああ来たな」と分かった。駐車場からグラウンドへと通じるクラブハウスの中から、あのダミ声が響いてくる。
「ジブン、怪我しとんのか。そうか、頑張りや」
「この前のトライ、ノッコンちゃうかぁ」
選手、スタッフ、誰彼構わず声を掛けまくる。昨今の大阪はかなり品が良くなったが、昭和の近鉄電車の中にようおった大阪のおっちゃんの典型だ。
野武士軍団の礎 光の当たらない者への眼差しを持ったリーダー
だが、その風体に騙されてはいけない。バナナの叩き売り風の見た目の裏に、この人の持つ繊細さが隠されている。その見た目は“着ぐるみ”のようなものだ。初見とは真逆の姿を何度も見てきた。
これは伝聞なのだが、とある大学教授の話を人づてに聞いたことがある。大学で教鞭をとる前に、大阪・四条畷高校の教師をしていた時代の教え子の一人が宮地さんだった。その教授の知っている宮地少年は「本気で進学を目指せば京大に行けたはず」という秀才だったという。そんな教師からの評価や期待もあったが、宮地少年は同志社大へ進み、ラグビーの深淵へとどんどん嵌り込んでいった。
そんな賢さと、物事の本質をしっかりとブラさない姿勢を強く感じさせたのが、現クボタスピアーズ船橋・東京ベイの大昔のイベントだった。当時の国内最高峰だった「東日本社会人リーグ」昇格を祝うパーティー。新たに最強リーグに参入してきたチームの昇格イベントであり、ラグビー界のお歴々も集まるために、記者として取材に赴いた。
昇格は勿論だが、チームが新たなステージに進んだこともあり、クボタ本社側は新シーズンへ向けて往年のスター選手、藤田剛さんを監督に招いた。パーティーでスピーチに立った協会、ライバルチームの招待客は次々と昇格と藤田監督就任を称えていた。その中で、宮地さんのスピーチだけは異質のものだった。
「今日の集まりは、なんや荻窪さんのお祝いかと思って来ましたわ。東日本リーグ昇格で、おめでとうと言ってあげたいのは荻窪かと思ってましたんで」
すこしとぼけた口調でのスピーチに会場が大笑いする中で、独り勝手に頷いていた記憶はいまでも鮮明だ。
「荻窪さん」とは、東日本リーグ昇格までクボタの監督を務めた荻窪宏樹さんのことだ。監督時代、初めて船橋のクボタグラウンドにお邪魔したのだが、不肖“草ラグビー”で背番号9をつけた身には、荻窪宏樹はまさに伝説の男だった。國學院久我山時代に高校ジャパンに選ばれ、明治大とエリート街道を突き進んだ。その後、怪我などもあって選手としては不遇の時代を過ごしたが、その存在は東京の片隅で楕円球を追うラグビー小僧も十分に認識していた。そんなレジェンドに「じゃあ、こっちで話しましょうか」と案内されたのは、グラウンドの隅に立つ、おそらく1階が用具置き場になっていた木造小屋の2階だった。そこは、30年取材を続けている中で、今でも経験のない畳敷きの部屋。そこで、このレジェンド9番はあぐらをかいて、気さくにチームの取り組みを話してくれた。
そんな経験もあって、東日本リーグへとチームを押し上げた荻窪監督へは個人的にお祝いを伝えたいと思っていた会場で、ただ一人“前監督”を労い、称えたのが宮地さんだった。太田のグラウンド、試合会場でお会いしたときのやり取りからも、うっすらと感じていた「脚光を浴びない者もしっかりと見つめる繊細さを持つ人」という宮地克実という男の本当の姿がはっきり分かったのが、この夜のスピーチだった。
そんな眼差しは、勿論チームにも注がれていた。当時の三洋電機ラグビー部は、すでに自分たちを「野武士」と呼んでいたが、そこにはライバル神戸製鋼のように選りすぐりの選手たちが名立たる大学から集まるエリート集団とは一線を画す思いがあった。
神戸製鋼(現コベルコ神戸スティーラーズ)の司令塔・平尾誠二と対峙した大草良広は、目黒高―法政大と名門を渡り歩きながらドロップアウトして、一度はメーンストリームから離れながら太田市のチームに拾われた。黄金時代にFBとして活躍して、現在スピアーズのコーチを務める田邉淳もクライストチャーチ教育大を卒業後にプロ選手としてのチャンスを探して三洋電機にやって来た。大東文化大で旋風を巻き起こしたシナリ・ラトゥら当時は今ほど多くなかったトンガ人留学生が太田に集まったのも、地理的な理由や大東大を率いた三洋OBの鏡保幸監督の影響だけではなく、どこからか流れてきた者を温かく迎える包容力のような空気感が、このチームにはあったからだ。
野武士軍団と自称していたが、むしろ本当の意味で「エグザイルス」と呼んでいいチームだった。“誰もが居心地がいいチーム”。これは三洋電機ラグビー部が生んだ地理的な風土でもあり、宮地さんのような光の当たらない者への眼差しを持ったリーダーがいたから培われたチーム文化でもあった。
今回のご不幸で、どこでも目にするのが「神戸製鋼劇的逆転優勝の悲運の指揮官」といったものだ。平尾さん率いる神戸製鋼との1990年度の全国社会人大会決勝戦。残り1分でのよもやの逆転負けを喫した時の三洋電機監督が宮地さんだった。だが、そこに指揮官・宮地克実の真相があるとは思わない。確かにあまりにも劇的な敗戦であり、このチームの長らく優勝を果たせなかった“シルバーコレクター”という歴史は、指導者・宮地克実の足跡とオーバーラップするかも知れない。だが、この人の残した名言の中でも忘れられないのは、すでに勇退していた1995年度全国社会人大会決勝戦の会場で語った一言に尽きる。
「ラグビーって…ええなぁ」 敗北の果てに辿り着いた“肯定”
サントリー(現東京サントリーサンゴリス)との引き分けではあったが、三洋電機が初めて「優勝」を決めた試合。記者席からグラウンド方向へ降りていくと、チーム関係者席に、変わらない浅黒い顔をした宮地さんがいた。多くの関係者、OBから握手攻めされる中で、コメントを取ろうと捕まえると、絞り出すようにこう呟いた。
「ラグビーって…ええなぁ」
多くの苦節、敗北があった宮地さんだからこそ、この言葉に説得力があった。そして、宮地さんが楕円球と携わって来たその長い足跡の先に、失望や落胆ではなく、「ええなぁ」という肯定があったことに、勝手に報われたような思いになった。
1987年の第1回W杯で監督も務めたが、平尾誠二、林敏之ら強力メンバーを擁した期待の中で、日本代表は3戦全敗に終わる。当時の国内世論は、世界の趨勢も十分に認知されない中で厳しい批判もあったが、宮地監督は「えらい、すんません」と頭を下げていた姿が印象に残る。実際には、同志社時代の恩師でもある岡仁志前監督の急な監督辞退で、教え子でありFWコーチだった宮地さんに予期せぬ“パス”が回って来たのだが、そんなアクシデントはおくびにも出さずに、準備不足を誰のせいにもせずに謝罪を繰り返していた。
三洋監督時代は、こんな奇策も聞かせてくれた。
「PKの時に、全員が相手に背を向けて横一列に並ぶんや。相手がどう守っていいか分からんうちに、キッカーが背面キックを蹴り上げて攻めたらおもろいやろ」
主将、監督、GMとして宮地さんからも薫陶を受けてきたワイルドナイツの飯島均シニアGMは「おそらく1試合くらい、そんな作戦を使ったと思う」と振り返るが、そんな茶目っ気も宮地さんならではの魅力だった。旧太田グラウンドでは、真冬の練習中にドラム缶の焚火で焼き芋を作って、我々にも振る舞ってくれたのも宮地―飯島時代の「らしさ」だった。こんな遊び心も、今のワイルドナイツに継承されている側面が間違いなくある。
通夜で三洋OBたちとこんな話をしていた。
「こんなにチーム関係者、OB、それに他チームの人たちが集まる葬儀は、もうないかもしれないね」
チームは戦術などの情報管理や、チーム自体の管理体制の充実で、宮地さんが活躍した時代ほど“横の繋がり”が持てない時代になっている。クボタのパーティーでのスピーチのように、監督や選手、関係者がチームを跨いで様々な関係性を深めることが過去の遺物と化そうとしている時代には、この夜の通夜のようにチームの垣根を超えて多くの関係者が集まる場所は急速に減少している。
残念だったのは、宮地さんの訃報の後の週末のリーグワンで、お別れを悼む動きが一切無かったことだ。確かに一チームの指導者であり、既に現場を離れて久しい人物は、公的な立場でリーグに携わる者ではない。理屈では単なる「私人」かも知れないが、宮地克実という人物が、三洋電機ラグビー部の指揮官として、そしてチームの枠を超えて日本のラグビーに何をもたらしたかを考えれば“肩書のない日本ラグビーのVIP”であるのは間違いない。
まだまだ狭い世界の日本ラグビーは、この先、さらにその裾野を広げようとする中で何をレガシーとして継承しながら進んでいくのか。過去に残された軌跡をもう一度再確認するには、この訃報はいい機会になる。
だが、そんな文句がましい文章を書くと、天国からあのダミ声が降ってくるかもしれない。
「そんな記事ええから、もっとチームや選手のいい記事たのんますわ」
天国で再会する平尾さんを、今度こそやっつけてくださいね。
(吉田 宏 / Hiroshi Yoshida)
吉田 宏
サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーW杯の南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かし、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。ラグビーW杯は1999、2003、07、11、15、19、23年と7大会連続で取材。
