人間は一面では語れない。それは経営者も同じだ。2026年4月に逝去したゼンショーホールディングス創業者・小川賢太郎氏は、カリスマ経営者として知られる。ライターの栗下直也さんは「そのウラには、死ぬまで闘う相手を必要とした元・全共闘の闘士の姿が見える」という――。

※以下原稿内では、敬称を省略しています。

写真=共同通信社
第三者委員会の報告書公表を受けて記者会見する、ゼンショーホールディングスの小川賢太郎会長兼社長=2015年4月8日午後、東京都港区 - 写真=共同通信社

■50歳を前に135キロのベンチプレスをあげる

2026年4月6日、ゼンショーホールディングス(HD)の創業者である小川賢太郎が77歳でこの世を去った。今年1月に体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。

一代で牛丼チェーン「すき家」や寿司チェーン「はま寿司」を展開し、2025年3月期には国内の外食企業で初めて連結売上高1兆円の大台を超えていた。日本の外食産業を牽引してきた巨星が、静かにその生涯を閉じたのである。

生前の彼が見せた「A面」は、壮大な青写真を強引に現実へ落とし込みながら、次々とM&A(合併・買収)を繰り返し、外食産業に君臨したカリスマ経営者としての顔だろう。

一方、彼の「B面」をめくると、挫折と敗北にまみれた元・全共闘の闘士の姿が見えてくる。ライバルに怨念に近い対抗心を燃やし続け、50歳を前に135キロのベンチプレスを挙上してのける。なんとも人間臭く憎めない「ガキ大将」の素顔が浮かび上がる。

小川がいかにして巨大外食帝国を築き上げ、そして宿敵・吉野家を超えたのか。その奇想天外な軌跡を辿ってみたい。

■革命家→港湾労働者→吉野家

小川の原点は、1960年代の学生運動にある。東京大学に入学した彼は、東大闘争の渦中でクラスの代表として自治会代議員となり、全共闘運動に身を投じた。体制批判にとどまらず、「自分の内にあるピラミッド構造も批判しなければならない」と、自らのエリート意識を問い直して大学を中退したのである。

日本で革命を起こすことを夢見た小川は、無党派の社会運動家となり、やがて「重労働がいい」という理由で横浜港の港湾労働者となる。「ハードワークをやってない人間は、労働者の中での存在感は軽い」という生真面目な実践主義によるものだったというから恐れ入る。その精神を貫き、桜木町の居酒屋で労働者のオルグ活動に勤しんだが、時代が経済競争へと向かっていた。小川が革命をいくら叫んだところで、多くの人にとっては「物語」に過ぎず、諦めざるをえなかった。

夢破れた小川が次に目をつけたのが、外食産業だった。食は誰にとっても欠かせない。新聞の求人広告を見て、1978年に牛丼チェーンの草分けである吉野家に入社する。あの誰もが知る「吉野家」である。

店長から経理部次長へと出世の階段を駆け上がったが、吉野家は経営危機に陥り、1980年に会社更生法を申請する。

■ゼンショーに込めた3つの思い

この経営再建を巡る主導権争いが、後の小川の人生を決定づける。再建の方向性を巡り、後に吉野家の社長となる安部修仁が属する陣営と、小川が支持する陣営が真っ向から対立した。

小川側は敗れ、吉野家の大株主だった新橋商事の外食部門に移籍する。だが、不動産管理業を本業とする新橋商事と、「今晩物件を見れば翌日には手付けを打つ」外食業のスピード感は致命的に噛み合わなかった。

「同じ苦労をするなら、すっきりした形でやりたい」――後年、日経新聞夕刊の連載「人間発見」(1999年)で本人が振り返っている。

吉野家での主導権争いに敗れて2年後の1982年、33歳の小川は仲間3人と資本金500万円で起業する。社名は「ゼンショー」。「事業を始めたからには全部勝つ」という「全勝」、善き商売をする「善商」、そして「禅の心」の三つの意味を込めた。

とはいえ、スタートは惨めだった。生麦駅近くのトタン屋根の2階建て、家賃15万円の倉庫の一角に、角材とベニヤ板で事務所を作った。全共闘時代に角材を扱い慣れていたからこそのDIYである。机代わりの段ボールの上に電話を一本置いただけの殺風景な事務所が、売上高1兆円企業の原点だった。

牛丼店なのにカレーも中華丼もある

資金もないため、1号店は設備資金のいらない持ち帰りの弁当屋から始めた。小川自ら夜番に入り、翌日の昼過ぎまで働き詰めた。車を運転して帰る時には眠さのあまり、信号待ちのたびに片目ずつつぶってやり過ごしたという。

資金繰りも楽ではなく、給料日が近づくたびに気が重くなり、「サラリーマンは気楽だ」と痛感する日々だった。しかし、小川は苦境にあっても決して志を低くすることはなかった。創業時から「やるからにはフード業で世界一を目指す」と宣言していた。

ゼンショーは創業の年の秋に牛丼の店を出す。この店が「すき家」の前身となる。吉野家が都市中心部のカウンター席で男性客を高速回転させるスタイルだったのに対し、小川は郊外型でテーブル席を主体にし、家族連れを取り込む戦略に出た。メニューも牛丼だけでなく、カレーや中華丼など多様化させ、吉野家のメニューの隙を突いた。

写真=iStock.com/kuppa_rock
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kuppa_rock

■「吉野家倒産時の件が許せない」

小川の吉野家への執念はすさまじかった。2000年代前半、すかいらーく創業者の横川竟から外食の業界団体(日本フードサービス協会)への入会を勧められた際、日経新聞の記事によれば、小川は「吉野家倒産時の件が許せないし、入りませんよ」と一蹴している。

打倒・吉野家に燃える小川に千載一遇のチャンスが訪れたのは2000年代初頭、米国でBSE(牛海綿状脳症)が発生した時だ。吉野家が米国産牛肉にこだわって牛丼の出店ペースを落とす中、小川は「追い上げるチャンス」とばかりにいち早くオーストラリア産などに調達先を切り替え、営業を再開した。この一手が勝負を決定づけ、2008年にはついに国内店舗数で因縁の吉野家を抜き去った。

吉野家を圧倒的な規模で凌駕した後の2010年代、小川の視線は「打倒吉野家」から「世界戦」へと切り替わる。

2014年頃、因縁の相手である吉野家HDの安部が会長を退任した時期に、パーティーの席で顔を合わせた際には、自ら安部に歩み寄り握手を求めた。小川にとって吉野家はもはやライバルではなくなっていたのだろう。

すき家 浜大津店(滋賀県大津市)(写真=運動会プロテインパワー/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■「奇人変人しか起業なんてできない」

ここで、小川賢太郎という人物の極めて特異なキャラクターに触れておきたい。

射るような眼差しの持ち主で、メディアの前でも感情を露わにせず、独特の威圧感を漂わせる人物だったことは広く知られている。

社長室にはトレーニング機器が鎮座しており、100キロのバーベルを事もなげに押し上げた。それだけでも常人離れしているが、米国人の本で「一流の運動選手はベンチプレスで135キロ上げなければならない」と読めば、本当にそれに向かって猛烈なトレーニングを開始し、2年がかりで50歳を前に135キロの挙上までやり遂げてしまった。

思い込みの激しさは筋金入りで、小学生の時には「米国人のような体になるにはパン食がいい」と思い込んで母親にパンばかり作らせていた(後にコメの優秀さに気づく)という。

さらに強烈なのが、彼の「被害妄想」すれすれの思考回路である。BSE騒動時、ゼンショーが米国産牛肉を避けて豪州産などを使っていた際、小川は取材時に真顔で漏らしていた言葉が残っている。

「あのとき米国に滞在していたが、情報機関が俺のことを嗅ぎ回っている感じだった」
「米国は俺を警戒しているからな」

一介の牛丼チェーンの社長をCIAがマークするわけがないのだが、小川は本気だった。小川自身、「奇人変人しか起業なんてできないんだよ」と笑い飛ばしていたが、過剰なまでの自己認識と常在戦場の感覚こそが、小川を前進させ続けた強烈なエンジンだったのは間違いない。

■「深夜のワンオペ問題」の背景

小川が掲げていた企業理念は、外食企業としてはあまりにもぶっ飛んでいる。「世界から飢餓と貧困を撲滅する」。これは彼が10代の頃から抱き続けてきた夢であり、東大全共闘時代から続く「世直し」の延長線上にある。

実際、小川は企業の規模拡大を、この途方もない理念を実現するための手段と捉えていた。小川は年間売り上げが4000億円だった時期に「20倍にできる」と豪語したという。狂気じみた野望が見て取れるエピソードだが、「理想と野望」が強すぎるあまり、足元の現実と激しく軋轢を生むこともあった。

象徴的な事例が、2014年に社会問題化した「すき家」の「ワンオペ(深夜の1人勤務)」過重労働問題である。パート・アルバイトの労働需給が引き締まる中、現場の悲鳴をよそに、本腰を入れて改善に取り組まなかった。「強盗が頻発している」と指摘されても、「世界から飢餓をなくす」という崇高な使命の前では、深夜のワンオペ解消は後回しにされてしまったのだ。

結果的に、ネット上での「ブラック企業」批判が猛烈な勢いで拡散し、第三者委員会からも手厳しい批判を受ける。かつて革命を夢見た闘士は、「ネット革命」による批判の広がりによって自らの野望を修正し、現実との折り合いを余儀なくされた。皮肉な幕切れである。

■死ぬまで「闘う相手」を求めた

「理想と現場」の軋轢は生涯つきまとった。死去の前年である2025年にも、主力のすき家事業で異物混入問題が続発し、国内事業は苦戦を強いられた。

崇高な理念を掲げて世界に飛び立とうとする創業者の足元で、現場は常に苦しみ続けたのである。ただ、こうした挫折を繰り返し乗り越えるたびに、ゼンショーはより強靭な企業体へと脱皮していったのもまた事実である。

ここで注目したいのは、小川の「奇人変人」ぶりが、単なる性格の奇矯さではなく、全共闘世代特有の「自己否定の論理」の裏返しだった可能性である。

学生時代に「自分の内にあるピラミッド構造」を問い直し、大学を捨てて港湾労働者になった男が、半世紀を経て「CIAが自分を警戒している」と真顔で語る。そこには、常に「体制」や「敵」を外部に設定することで自らの立ち位置を定めた、闘争世代の思考回路が透けて見える。

常軌を逸したベンチプレスへの執着も、ワンオペ問題での頑なさも、途方もない飢餓撲滅の理念も、すべてはこの一本の線で繋がっているのではないか。小川賢太郎という「ガキ大将」は、死ぬまで「闘う相手」を必要とした人だったのだろう。

写真=iStock.com/South_agency
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/South_agency

■終わらない世界戦へのバトン

2025年6月末、次男の洋平にゼンショーHDの社長の座を譲り、自らは会長職に専念した。創業以来初の社長交代である。その約9カ月後の訃報だった。

小川はかつて取材に対して、1980年代の吉野家再建時の対立を「その時の歴史は正しく語られていない。だが当事者が数多く存命で、まだ言えない」と語っていたが、彼自身の口から、あの敗北の「真相」が語られることはついになかった。

生涯を通じて「闘う相手」を求め続けた男は、最期まで世界を相手に構えていた。1兆円という数字は、その長い闘いの途中経過にすぎなかった。本当の世界戦はこれからだったが、規格外のガキ大将は、もういない。

参考文献
「敗北からの『全勝』経営 ゼンショー小川氏死去 因縁の吉野家超え(評伝)」日本経済新聞 2026年4月8日朝刊
「【評伝】ゼンショーHD創業・小川賢太郎氏 一代で売上高1兆円企業築く」産経新聞 2026年4月8日朝刊
「ゼンショー新社長、創業者次男の小川洋平氏」日経MJ(流通新聞)2025年5月16日
「ゼンショー、異物混入が影――社長に小川洋平氏 創業以来初交代 世界展開を加速」日本経済新聞 2025年5月14日朝刊
すき家、理想と野望が壁になった風土改革」日本経済新聞電子版セクション2014年8月21日
「ゼンショーがロッテリアを買収へ! 買収側と売却側、それぞれの思惑は」ダイヤモンド・チェーンストアオンライン2023年2月28日
「トップインタビュー:ゼンショーホールディングス・小川賢太郎会長兼社長兼CEO」月刊食品工場長 2016年12月1日
「夢は外食世界一(1)〜(5)ゼンショー社長小川賢太郎氏(人間発見)」日本経済新聞 1999年6月7日〜11日夕刊

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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。
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(ライター 栗下 直也)