かつて「揚げ物にうどん、カレー」が当たり前だったプロ野球の食事。そこに科学的な栄養管理を浸透させ、現在はメジャーリーガーの鈴木誠也選手らが絶大な信頼を寄せるのが、株式会社 明治の管理栄養士・大前恵さんです。5年間の「専業主婦」からの再出発。キャンプ地での門前払い、手紙を出しても反応がなかった3年間…。それでも「食べて体を変える」と信じて一歩ずつ信頼を積み上げ、上原浩治氏の現役生活を20年にわたり支えるまでになった、知られざる「食の伴走者」の物語。

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うどんやカレーがメインで並んでいた、かつてのプロ野球界

── 長年、多くのアスリートを支えてこられた大前さんですが、とくに上原浩治さんとは、引退まで20年以上にわたる深い絆を築かれました。ただ、最初にキャンプ地で顔を合わせたときは「門前払い」のような状態だったそうですね。

大前さん:当時、メジャー球団でのコーチ研修から帰国されたばかりの投手コーチが「これからはあなたのような職業の人が絶対に必要になる」と、入団1年目だった上原さんを引き合わせてくれたんです。「こいつは本当に将来有望だから、何とかしてやってくれ」と。ただ、当時の上原さんは栄養にまったく関心がなく、「大丈夫です」と、そっけなく断られてしまいました。

── そのころはまだ「食がパフォーマンスを支える」という意識が希薄だったのでしょうか。

大前さん:そうでしたね。たとえば球団のケータリングでは、選手が好んで食べるような揚げ物、うどん、カレーといった炭水化物や脂質がドン!と並んでいるのがふつうの光景でした。科学的なアプローチが一般的ではなく、栄養がパフォーマンスにどう影響するかという視点は、まだあまり浸透していなかった時期。いきなり栄養の話をされても、心に響かなかったのでしょうね。

返事のない3年間。それでも手紙を書き続けた理由

── 栄養への意識がまだ低い、いわば逆風のような環境のなかで、どのように関係を築いていったのですか。

大前さん:プロ野球がオフシーズンのときに、手紙を出したんです 。「エネルギー補給で球速を維持する確率が上がる」「ケガの防止や筋力アップにつながる」など、栄養学が結果にどう結びつくかを具体的に書いて、「栄養でできることはたくさんあります」と伝えました。ただ、そこから2年間にわたって手紙を出したのですが、まったく無反応だったんです。

── 2年間も無反応。ふつうならあきらめてしまいそうですが。

大前さん:栄養をコンディショニングに取り入れることのメリットに気づきさえすれば、絶対に必要としてくれる。その確信がありました。それに、紹介してくださった前述の投手コーチに「やります」と言った以上、その約束を途中で投げ出したくない思いもありました。

転機が訪れたのは、3年目です。上原選手のケガが重なり、思うような成績が出ずに苦しんでいた時期でした。「食を変えることで、ケガを防げたり、少しでもいい投球ができたりする確率が上がるなら話を聞きたいです」と、連絡をいただいたんです。ちょうど彼が選手寮を出て自炊を始めるタイミングとも重なり、ようやく本格的なサポートが始まりました。

上原さんは非常に頭の回転が速く、食生活において伝えたことをすぐに理解し、実践していく姿勢をもった素晴らしい方でした。結局、引退されるまで20年以上、コンディション作りに伴走させていただくことになりました。球界が全体的に、栄養に対する意識や姿勢が変わっていったことも実感しました。

5年の専業主婦を経て、プロ野球のキャンプ地へ飛び込む

── 大前さんご自身は、どのような経緯でこの道へ進まれたのでしょうか。

大前さん:じつは、学生時代はそれほど高い志があったわけではなく、「ご飯が作れると将来役に立ちそう」くらいの感覚で資格を取りました。卒業後はモータースポーツのPR会社に就職。その後結婚して、5年間は専業主婦をしていました。

── 5年間の専業主婦期間を経て、再び働くことになったきっかけは何だったのでしょう。

大前さん:夫がオフロードラリーの日本代表に選出されたのですが、国際大会に出場することになり、「体を大きくしたい」と、相談されたことがきっかけでした。あらためて栄養学を勉強し直し、アドバイスをもらおうと親交のあった明治の先輩を訪ねるうちに仕事に魅力を感じて、ちょうど前任の退職時と重なり思いきって復職を決めました。

スポーツ栄養学を学ぶ学生たちとの交流も行う大前さん

── そこから、どうやってプロの現場へ食い込んでいったのですか。

大前さん:当初は事務職としてのスタートでしたが、「アスリートを支える栄養士の活動を世の中に発信すべきだ」とみずからPRになるサポートを行いたいと手を挙げました。本格的にアスリート支援に関わり始めたのは、入社して4か月ほど経ったころです。「現場を知らないと何もできない」と思い、代理店の方にお願いをして、プロ野球のキャンプに同行させてもらいました。会社や球団からの依頼があったわけではなく、自分から飛び込んだ形です。当時はキャンプ地に女性がいること自体が珍しく、新聞記者と勘違いされることもありました。

「スター選手も若手も関係ない」大切なのはフラットな目線

── 現場で選手を支援する際、まず何から着手するのですか。

大前さん:最初に確認するのは「本人が何を望んでいるか」です。数値目標をただ追うのでなく、「今のチームでいいコンディションを維持し活躍したいのか」「将来メジャーに挑戦するためにどうカラダを変えたいのか」など、選手のニーズに合わせて、必要なサポートを組み立てます。

選手が所属するチームとの連携も欠かせません。たとえば、監督がその選手に機敏な動きを求めているのに、選手が勝手に体重を増やして動きが鈍くなっては、選手にとってメリットになりません。だからこそ監督、コーチ、トレーナー、調理担当などと連携を取り、「その選手が一番輝ける状態」を作ることが重要です。私たちの仕事は、単に栄養バランスを整えるために数値を管理することではありません。チーム全体で連携して、その人が一番輝ける状態を作ること。それが管理栄養士としての役割だと思っています。

── 選手との信頼関係を築くために、大切にしていることはありますか?

大前さん:徹底して「公平であること」でしょうか。実績のあるスタープレーヤーであっても若手選手であっても、同じ行動を取ります。たとえば、若手選手と話しているときにベテラン選手から声をかけられても、「今はこの選手と話しているので、少し待っていていただけますか」と、伝えます。

── それは、なかなか勇気がいることのように感じます。

大前さん:幼少期から親に言われていた「相手を見て態度を変えない」という教えが根づいているのだと思います。そもそも結果を出し続けるいわゆるスター選手ほど、そうした対応をされても、不機嫌になったりはしないものです。誰とでもふつうに接することで、選手の年齢やキャリアに関係なく信頼をいただけているのだと感じます。

5年間の専業主婦から、プロ野球の世界へ飛び込んだ大前恵さん。 門前払いされても、3年間沈黙を貫かれても、彼女が手放さなかったのは「相手が誰であっても、一歩ずつ、誠実に」という極めてシンプルなマイルールでした。

効率やスピードばかりが求められる今、私たちはつい「最短距離の正解」を求めて焦り、自分を見失いそうになることはないでしょうか。

周りに流されず、自分の中の誠実さを守り抜く。その一見「遠回り」に見える一途な姿勢が、最後には誰にも壊せない信頼を勝ち取っていく。大前さんの静かな強さに触れて、今、何を感じましたか。

取材・文:西尾英子 写真:大前恵