ユニバーサルミュージックジャパンHPより

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 ついに素顔を「解禁」した歌手のAdo。平成を代表する「顔を出さないアーティスト」であるGReeeeN(現・GRe4N BOYZ)とAdoを比較すると、彼女の緻密な戦略と今後の方向性が見えてくる。【冨士海ネコ/ライター】

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【写真を見る】「若いころの椎名林檎みたい」 Adoの“クール系美人”な素顔

 ついにAdoさんが素顔を「解禁」した。自伝小説の出版に伴い、新たに制作されたミュージックビデオでは、ぼんやりとだが横顔を垣間見ることができる。「歌い手」としてクローゼットの中から世界を震撼(しんかん)させてきたAdoさんの歴史的転換点を巡り、ネット上では称賛の声と同時にさまざまな議論が巻き起こっているようだ。

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 といっても、「顔を出さない歌姫」はAdoさんの専売特許だったわけではない。90年代にも、大黒摩季さんや岡本真夜さんといった前例がある。テレビの音楽番組が主戦場だった時代、存在するか分からない謎のシンガーは瞬く間にヒットチャートを席巻した。レコード会社による徹底した情報の統制によって、彼女たちはミステリアスな「聖域」として君臨することに成功したのである。

 対して令和の申し子、Adoさんの匿名性は本質的に異なるのではないだろうか。彼女が注目されたのは、情報を統制したからではなく、むしろ「顔を隠しても漏れ出る自意識」がSNS社会の好奇心と合致したからではないかと思うのである。

 Adoさんが顔を出さずに活動を始めたのは、自分のビジュアルより歌にフォーカスしてほしいという「歌い手」としての立場を重んじたからだという。そしてメジャーデビューにあたり、彼女は自分の「顔」に8頭身のクールな美少女イラストを選んだ。「顔の見えない女子高生」という記号的なセールスポイントと共に、裏声もがなり声も操る圧倒的なスキルを見せつける。そこには「顔バレしたくない」という守りの姿勢よりも、「この才能に気付いてほしい」という攻めの自意識も透けて見えていたと言っては言い過ぎだろうか。

 とはいっても、芸能活動をする女性のルックスに向けられる視線は実に厳しいものがある。音楽以外の部分に注目が集まったり、心ない誹謗中傷を避けたりする意味でも、顔だけは隠したいという心情も理解できる。だがその一方で、大御所タレントとのトーク番組に出演したり、シルエット越しにロングヘアをなびかせ抜群のスタイルで踊る姿を「チラ見せ」したりしたのが、「顔バレしたくないのかしたいのか分からない」という戸惑いや反発を呼んでしまったのだろう。

 生まれた時からSNSで自分の情報を発信することが当たり前の世代であるAdoさんにとって、完全に自身の姿形を消し去ることは本質的には望まないのかもしれない。しかし、こうした「徹底されていない秘匿戦略」は、「隠すことで自分自身をより際立たせたい」という裏返しの承認欲求と受け取られ得るのだ。

承認欲求なき鉄壁のGReeeeNとの違い 野次馬を黙らせる「大義名分」の力

 ここで、Adoさんとは対極にある成功例、GReeeeN(現・GRe4N BOYZ)を振り返ってみたい。彼らが20年間一度も顔を出さなかった理由は、「歯科医師としての本業を守る」という、生活に根差した必然性であった。この「大義名分」があったからこそ、彼らの匿名性はルッキズム的な好奇心を超えた、純粋な敬意を持って受け入れられたといえる。

 2009年のレコード大賞で最優秀アルバム賞を受賞した際も、メッセージのみの出演で司会とのやりとりも無し。全国ネットでは初の肉声ということで非常に話題を集めたが、その後もメディア出演やSNS発信は限られたものにとどまっている。

 こうした彼らの態度に、承認欲求の匂いは漂わない。むしろ他者から過剰に承認されることを恐れるかのように、淡々と静かに本業と楽曲制作に徹するGReeeeNの姿勢は、ファンの深い尊敬を集めてきた。なおかつその真摯な姿勢こそが、アンチの「素顔を暴きたい」という野次馬根性をくじく抑止力にもなっているのではないだろうか。

 一億総カメラマンともいえる現代、一度顔が割れれば24時間私生活を追われる事態にもなり得る。例えばMAN WITH A MISSIONは、かぶり物による「ファンタジーの確立」で中の人間性を無意味化しようとしたが、それでも一部のメンバーは週刊誌のスキャンダル報道によって実像を暴かれた。ましてや活動開始時は未成年であったAdoさんにとって、顔出しを控えることは、平穏な日常とプライバシーを守るための自己防衛策でもあったはずだ。

 けれども、結果的にAdoさんは顔を出すことを選んだ。顔出しに踏み切った背景には、間違いなく「海外での活動拡大」と、彼女が公言している「グラミー賞」への野心が見えてくる。

グラミー賞という実像の戦場 「背を向けるSia」から「前を向くAdo」へ

 海外に目を向ければ、顔を隠す歌姫の先駆者としてSia(シーア)の存在が際立つ。2015年のグラミー賞授賞式で見せた、カメラに背中を向けたまま一歩も動かないパフォーマンスは今も語り継がれている。世界最高峰の栄誉を前にしてもなお「素顔を見せない」という美学を貫き通したその姿勢は、単なるワガママではなく、表現者としてのプライドに映った。だからこそ世界中からのリスペクトを勝ち取ったのだ。

 しかし欧米のエンタメ産業において、ポップスターは基本的に「共に熱狂できる血の通った人間」であることを求められる。いくら歌唱スキルが突出していても、イラストの裏や逆光の中に隠れ続けるシンガーは、グローバルなメインストリームにおいてはやがて限界にぶち当たる。観客と一体化した熱量や、生身のたたずまいそのものが評価の対象となるグラミー賞という舞台においてはなおさらだ。

 つまり、Adoさんの顔出しはルッキズムへの屈服などではない。「SNS時代に対応した戦略」を捨て、実在する一人の人間として「世界のポップアイコン」に君臨するための、極めて冷徹な戦略的決断なのだろう。

 Adoさんが選んだのは、素顔を晒すリスクを冒してでも、世界の観客と正面から目を合わせる修羅の道だ。それは、クローゼットや檻の中で守られ続けることを良しとしない、剥き出しのプロ意識と野心の現れである。

 結局のところ、AdoさんはGReeeeNになれなかったのではない。ルッキズムに屈したわけでもない。「世界のポップアイコン」という仮面を、新たにかぶろうとしているのではないだろうか。「顔を出さない方が格好良かった」「整形したんじゃないの」……そんな外野の「うっせぇ」雑音など、彼女はとうに織り込み済みに違いない。日本の常識の檻から飛び出したAdoさん、次はどんな表情で、世界を塗り替える名曲をたたきつけてくれるだろうか。

冨士海ネコ(ライター)

デイリー新潮編集部