「名誉レフェリー」が語る外国人レスラー列伝(1)
ザ・デストロイヤー

 今は日本人対決が中心になっているプロレス界だが、昭和時代は、海を越えてやってくる強豪外国人レスラーと、団体のエースが戦う図式が主流だった。中でもジャイアント馬場が1972年10月に旗揚げした全日本プロレスは、きら星のような豪華外国人がマットを彩った。

 そんな伝説の外国人レスラーたちの素顔とは――。草創期から全日本のすべてを知る和田京平「名誉レフェリー」が、レジェンドたちの秘話を明かす。連載の第1回は、全日本の草創期を支えたザ・デストロイヤー。


全日本プロレスで活躍したデストロイヤー(左)とジャイアント馬場

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「白覆面の魔王」と呼ばれたデストロイヤーは、1963年5月、力道山の宿敵として初来日した。5月24日に東京都体育館で行なわれた力道山との対決は、中継した日本テレビの視聴率が64パーセント。現在も歴代4位の記録となっている国民的関心事となった。

 必殺の「足4の字固め」で力道山を苦しめるなど、デストロイヤーは日本人に鮮烈な印象を与えた。その後、日本プロレスを退団した馬場が全日本プロレスを設立すると、手薄だった日本陣営の"助っ人"として1973年から同団体の所属選手になり、日本に移住した。

 当時、「リング屋さん」と呼ばれる全日本のリング設営スタッフだった和田は、デストロイヤーが住んでいた東京・麹町の一軒家に招待された日のことをこう語る。

「場所は当時、麹町にあった日本テレビの裏で、広い芝生の庭がある豪邸でした。ある時、そこに俺たちリング屋を招待してくれたんです。庭でバーベキューをしたんだけど、そのころはバーベキューなんて見たことなかったし、しかもアメリカ式のでっかい肉を豪快に焼くやり方でね。『すっげぇな、これがアメリカか』って感動したもんです」

 和田ら「リング屋さん」を招待したのには理由があった。デストロイヤーは、全日本のシリーズにレギュラー参戦して間もなく、試合前の会場ロビーで自らの覆面の販売を始めた。和田らスタッフがその売店の手伝いをしていたため、そのお礼で自宅に招いたのだ。

「今では、会場で選手のグッズを売るのも普通ですが、それを日本で初めてやったのがデストロイヤーです。それまで全日本の会場ではパンフレットを売るだけで、Tシャツ、帽子、ポスターといった選手のグッズは売っていなかった。そんな時代にデストロイヤーはアメリカから覆面を持ってきて、それにサインを入れて、確か1500円か2000円ぐらいで売り始めたんです。

 馬場さんはデストロイヤーに対しては特別待遇にしてたんで、覆面を売ることを認めていたんですが、最初は『変なことをやるなぁ』という目で見ていましたよ。だけど、それがファンに受けたことを見て、自分も16文キックの足型をイラストにしたTシャツを売り始めた。それから他の選手もグッズを作るようになったんです。だからデストロイヤーは、日本のプロレス界では"グッズ販売の元祖"ですね」

 リング上だけでなく、歌手の和田アキ子がMCを務める日本テレビ系『金曜10時!うわさのチャンネル‼』(1973年10月〜1979年6月)にレギュラー出演し、お茶の間の人気も獲得した。

「『うわさのチャンネル』に出てから、さらに人気がすさまじくなってね。毎年夏になると麻布十番で『納涼祭り』があるんですが、そこでデストロイヤーが試合会場と同じようにサイン入りの覆面を売ったら、1日の売り上げが100万円くらいになったのかな。飛ぶように売れたから、デストロイヤーには『ここでこんなに売れるんだから、試合会場ではもっと売れるはずだ』とハッパをかけられましたけど(笑)」

 デストロイヤーは日本で生活する際、絶対に人前で覆面を脱がなかった。和田は1974年からレフェリーになったが、ある時、それまで一度も見たことがなかった素顔を偶然目撃してしまう。

「たぶん後楽園ホールだったと思うんだけど、試合が終わってシャワー室をのぞいたら、知らない外国人のおっさんがシャワーを浴びていて。『誰だ、このおっさん』と思ったら、向こうも俺が怪しんでいるのがわかったんでしょうね。目が合った時に『ボク、デストロイヤー』と言われて、俺もビックリして目が点になったよ(笑)。当時、パンフレットを売っている人に似ていたかな。『デストロイヤーの素顔っておっさんだったのか』って思いました」

 ただ、絶対に外では覆面を脱がなかったデストロイヤー。それには、ある"狙い"も隠されていたという。

「素顔だと町の人は誰も気づかない。例えば、飲食店に入ってもサービスされないんですが、マスクを被れば違うわけです。車を運転する時も必ずマスクをしていましたね。高速道路に入る時に、料金所の係員に『ボク、デストロイヤーです』と言うと通してもらえたんですよ(笑)。今の時代では信じられないだろうけど、本当の話。愛車は真っ赤なホンダのシビックで、俺が助手席に乗せてもらった時も、本当にそうやって料金所を通過していましたからね」

 1979年まで全日本にレギュラー参戦したデストロイヤー。その後も定期的に来日し、1993年7月29日に日本武道館で引退試合を行なった。引退後も、2011年の東日本大震災の際にはチャリティーの興行で特別立会人を務めるなど、日本での活動も継続した。

 2017年には日米の友好親善に貢献した実績が評価され、秋の叙勲で「旭日双光章」を受章。文化の懸け橋として多大な功績を残したデストロイヤーは、2019年3月7日に88歳で生涯を閉じた。

「全日本が旗揚げして間もなくは、馬場さんしか"看板"がいなくて、団体として苦しい時期だった。その時にデストロイヤーが、家族と一緒に日本に移住してくれて助けてくれたことは、全日本の歴史を振り返る上で絶大な功績です。彼の存在なくして、その後の全日本はないと言ってもいいくらい。リング上では、しっかりしたレスリングでファンをうならせ、素顔は茶目っ気があった。デストロイヤーは忘れられないレスラーです」

(=敬称略)

(第2回:ミル・マスカラスが投げたマスク争奪戦の裏側>>)

■和田京平(わだ・きょうへい)
1954年11月20日生まれ。東京都出身。さまざまな職業を経たあと、1972年に全日本プロレスにリング設営スタッフとして参加。1974年レフェリーとしてデビュー。1986年には、東京スポーツ新聞社が制定する「プロレス大賞」で「優秀レフェリー賞」を受賞した。2011年6月に一度は全日本を離脱するも、2013年6月に「名誉レフェリー」として復帰した。