グリーンスクールでのプレゼンの様子。この発表をきっかけに、現在は進路に悩む後輩や親に向けたイベントを開催する

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 インドネシアのバリ島に「グリーンスクール」という学校がある。竹でできた美しい校舎はジャングルの中にあり、“環境に配慮し、持続可能な世界のリーダーを育てる”というビジョンを掲げる。日本の教育では「つまずいた」と語る2人の男女が、なぜこの学校で道を切り開くことができたのか。前後編にわたり、日本人初の卒業生を紹介したい。

「グリーンスクール卒業のプレゼンテーションイベントで、僕は『Successful Failure(成功した失敗者)』というテーマで話をしました。それをきっかけに失敗だらけだった自分の体験を見つめ直したことが今につながっています。人はみんな違うから、ひとりひとりに合う教育を見つけられる社会を作りたい」

【写真】まるで映画の舞台のよう、世界一エコな学校『グリーンスクール』

 三反田祥哉さん(19)は、現在、慶應義塾大学環境情報学部の2年生。中学卒業まで兵庫県で生まれ育った。母親の明子さんは、彼の子育てに苦労したという。

「2歳ごろから全く目が離せない子でした。興味があるほうに突然走り出す。つないだ手を振りほどいて走る祥哉を必死で追いかけたものです。夢中になると周りの声が聞こえず、何度言ってもご飯を食べない、お風呂にもなかなか入らない。理由もわからず叱ってばかり。全く生活はまわらず本当に大変でした」

 授業中も先生の声は彼の耳に届かなかった。小学3年生のころには、教室のいちばん前に特別席を用意された。先生のすぐ横に、みんなのほうを向いて座らされる。それでも図書室で借りた漫画『火の鳥』を読みふけっていた。

「小学校のころは気弱で、スクールカーストの下のほう。反抗してたわけじゃなくて、漫画が読みたいと思ったら我慢できなかった」(祥哉さん)

 学校では、消しゴムのカスをゴミ箱に捨てる、1列に並ぶなど、ごく簡単な「みんなと同じ」ルールが守れない。両親は規律正しく生活できるようにと願い、ボーイスカウトや空手道場、塾などにも通わせたが、どこも指導者が「手に負えない」と音を上げた。

 夏休みの自由研究などは熱心に取り組むが、同じ漢字を繰り返し書く宿題は「なんでこんなわかりきったことやらなアカンの?」と絶対にやろうとしない。それでも学校の成績はいいほうだった。

 小学5年生のとき、発達検査を受けるとADHD(注意欠如・多動性障害)と診断され、精神科医にコンサータという向精神薬を処方された。

「ちゃんと育てなければというプレッシャーも強く、当時は個性を認めてあげることができませんでした。薬を飲めば落ち着くのではないかと思いましたが、食欲がなくなり、夜は眠れず朝も起きられない。やせていく様子を見て、親の判断で1週間で薬をやめました」(明子さん)

 その後、体調は戻ったが、学校でも家庭でも、同じような生活が続いていた。地元の公立中学へ進学し、そこからがまた大変だった。

「学校が面白くなくて、やんちゃな子とつるみ始めた。2年生の途中からは夜遊びするようになって、学校もほとんど行かなくなりました」

 酒にタバコ、バイクを乗り回すようになり、夜遊びしては明け方に家に帰る。昼間は寝ているため学校にも行かない。負のループに陥り、両親の手に負えなくなっていた。

 そうして、中学2年生の終わりから1年2か月間を児童自立支援施設で過ごすこととなる。「不良行為をするおそれがある児童などに必要な指導を行い、自立を支援する児童福祉施設」である。両親は「そこでようやく心身ともに生活を立て直すことができ、感謝している」と言うが、祥哉さんはこう語る。

「なんでも強制的に行動させられ、常に寮長の顔色をうかがって耐えるだけの毎日。胸ぐらをつかまれたこともあるし脱走もした。心を入れ替えるどころか、僕にとっては何も意味がなかったと思う」

子どもが好きな授業を作れる学校

 その後、祥哉さんの人生を大きく変えたのは高校の選択だった。

「地元の友達とつるまないようにと、全寮制の学校を両親が探してきました。それが国内の地方の3校とインドネシアのグリーンスクールで、その中から僕がグリーンスクールを選んだのはピアスも茶髪もOKだから。それ以外はよくわからなかった(笑)」

 とはいえ、グリーンスクールの入学には英語力と意欲が必要だ。英語も話せず態度も悪かったため、最初の面接ではすぐに不合格。その後、語学留学をしながら親子でグリーンスクールを訪れ、なんとか入学許可が下りた。入学1年目は英語力が追いつかず、やる気も出なかったが、徐々に気持ちに変化が表れた。

「グリーンスクールでは絶対に生徒を否定しない。あるときタバコを吸ったのがバレたけど、誰も怒らない。先生も寮長も、“タバコを吸うと健康にこんな害があることを知ってるかい? やめたくなったら協力するからいつでも相談して”って言うんです」

 授業は選択制で、中学から高校まで好きなテーマで自分に合う理解度で選ぶ。受けたいものがなければ授業を作ることも、先生になって授業を行うこともできる。DJやチョコレート作りなど面白いテーマがたくさんあった。

 もともと、好きなことは集中し突き詰める祥哉さん。授業に積極的に参加するようになり、3年生になるとドイツのボンで開催された国連の気候変動会議(COP)に学校の代表として参加することに。旅費もクラウドファンディングで40万円を集めた。さらに、卒業発表に向け、農業プロジェクトを立ち上げて熱心に取り組んだ。

「地元のオーガニック農場に自分で交渉して、天然の植物成長剤の検証をしようと試みました。農場は協力してくれて実験もできたけど、明確な結果が出ませんでした。本当はそのプロセスや結果をプレゼンする予定だったから、どうしようかと考えていたら、先生が“失敗をそのまま話せばいいんじゃない?”って」

 それまでの学校では「結果」だけが求められ評価されたが、ここでは「失敗」も含めて学びにつなげることができる。プロジェクトの失敗をきっかけに、自分の人生の失敗を振り返るうち、祥哉さんは教育についての理解を深めていった。そして、アメリカの心理学者ハワード・ガードナーの『MI理論』に行き着き、プレゼンの最後に取り入れた。

「人間の知能の物差しはひとつじゃない。言語的、論理数学的、音楽的、身体運動的、空間的、対人的、内省的とさまざまな知能があって、読み書き計算や知識だけに偏っている一般的な学校教育だけでは伸ばせない能力もある。ひとりひとりの力を見ることが大切だって書いてあったんです」

 プレゼンは大成功。ADHDのことも含め、これまでの人生を初めて包み隠さず人前で発表し、教員、生徒、保護者から力強いスタンディングオベーションを受けた。

「学校は与えられたことをやるだけの場所じゃない。自由な学び方もできるとグリーンスクールで初めて知った。それまで自分の可能性をつぶしていたことがもったいないと思った。だから、自分に合う教育を見つけて自分で選べる社会を作りたい」

 現在は、大学に通いながら人脈を広げ、オルターナティブ教育を受けた同年代に声をかけ、日本の教育に合わないと感じている親子に向けて、個性を伸ばす学校の情報発信イベントを始動させている。

「すべての経験が今の僕につながっている。ADHDであることにも、数々の人生の失敗にも、支えてくれた人たちにも心から感謝しています」

日本の教育の限界!「個性」を伸ばす時代へ
汐見稔幸(東京大学名誉教授 教育学)

 数年前から、子どもたちの発達障害を心配する保護者や教員が増えています。発達障害は「自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如・多動性障害(ADHD)、学習障害」だけでなく、チック障害、吃音なども含まれ、「生まれつき脳の一部の機能に障害がある」と定義されていますが、その表れ方は個人差がとても大きいのが特徴です。

 そもそも脳の働きには誰にも少しずつ濃淡があって、それを個性といっているのです。私だってADHDの症状はかなり当てはまるしスティーブン・スピルバーグも学習障害のひとつ、読み書きが苦手なディスレクシアだと公言しています。黒柳徹子さんだってそうですね。

 医学は身体の機能不全の原因を突き止めなければなりませんからある程度の細かな分類も必要ですが、教育にはそれとは異なる原理が必要です。

 教育でいちばん大事なことは、人を適性で分類することではなくて、その子の内部にある個性的な「生きよう」とするエネルギーを見つけ活性化させそのサポートをしていくことです。

 学校教育は、そもそも産業革命以降、人の指示に従って効率よく動く工業労働者や兵士を育てるために活用された面が大きい。日本でも少しずつ見直されてはいますが、根本的な教育スタイルは簡単には変わらず、子どもたちは、基本的に大人=教師の論理に合わせることを要求されてきました。

 社会の価値観は大きく変わっています。今までは均一なものを効率よく作ることが企業の使命でしたが、今は「違い」や「多様」にむしろ価値がある時代です。子どもが主体性や個性を発揮できる教育が必要とされているのです。

 学校に子どもを合わせる時代は終わり、教育が子どもに合わせる時代が始まっています。持続可能な社会の担い手となってもらう子どもたちに、その子の個性を考慮してどんな教育が可能か考え、サポートする。そうした先駆的な学校は世界でも日本でも作られ始めています。そのうちのひとつがグリーンスクールなのだと思います。

(取材・文/太田美由紀)