アンチドロップアウト 第3章 vol.8 part2

 小澤という男は、周りの人に対する敬意を常に払い、とりわけ目上の人には礼を欠かさない。それは茨城県行方市という北関東の素朴で謹直(きんちょく)な風土の残る土地において、公務員の父の一家で厳格に育てられたことも影響している。練習では裂帛(れっぱく)の気迫を見せながら、"野心を露(あら)わにして周囲と摩擦を起こす"という行為は慎んだ。プロに入ってからはさらに辛抱強く、自己犠牲を厭(いと)わない人格が固まった。

 その小澤が変貌を遂げるのは、2010年に鹿島を自ら去る決断をしてからのことだ。

「子供の頃からの夢だった海外でのプレイ」を志し、2010年2月にパラグアイ、スポルティボ・ルケーニョと契約。南米人の遠慮容赦のない世界に飛び込み、小澤は隠していた自分をついにさらけ出した。『賄賂(わいろ)でも送らなければポジションは取れない』と言われる環境で、かつて南米王者に輝いたオリンピア・アスンシオン戦でリーグ戦初出場を飾り、正GKの地位を手にしたのだ(詳しくは単行本『アンチ・ドロップアウト』、『フットボール・ラブ』)。

 殻を破った小澤は、帰国した2011年シーズンに新潟で生涯最高成績を収めている。同年4月、新潟のGK陣に故障者が出たことでシーズン途中に加入するや、スタジアムを沸かす堅守を見せ、プロとして初となるヒーローインタビューも受けた。37歳にしてシーズン最多となる公式戦20試合に出場。世界サッカー界広しと言えども、プロ20年目にして自己記録を大きく塗り替える選手は珍しい。

 一方で目覚めてしまった本性を持て余す自分がいたことも、小澤は純朴そうな皺(しわ)を顔中に作って告白している。

「新潟では、"殺気を抑えるクリーム"を全身に塗りたくるような毎日でしたね」

 ピッチに立つと、ほぼ反射的に殺気が肌に立ったという。パラグアイでの闘争で、殺気を放つことは習慣として身についていた。新潟では、パラグアイリーグだったら許されない緩慢なプレイを見るたび、血管が切れてしまいそうだった。

「パラグアイでの自分は、牙を剥き出しにできました。周りがそういう環境だったから違和感がなくて。向こうでは、結構多くの選手の指や足首の骨が変形しているんです。ある日、足首を脱臼し、足を引きずって戻ってきた選手が、強引に骨を入れられプレイを再開していました。『そこで壊れるなら、お前はもう終わり』という勝負の世界。でも、新潟では優しいトレーナーが『風邪が流行っているからマスクを配るぞ』という世界でした」

 断層で身を捩(よじ)った日々を振り返る。

「どちらがいいというのではないんです。自分に声を掛けてくれ、温かい気持ちで接してくれた新潟の人たちには、心から感謝しています。ただ、僕に対する選手やスタッフの戸惑いは伝わってきましたね。クラブのオフィシャルマガジンで、若い選手が『小澤さんは神』という表現をしていたことがあったんです。それほど近寄りがたかったんでしょう(苦笑)。自分としては生えてくる牙(きば)を折り、殺気にクリームでごまかしていたつもりなんですが」

 2012年シーズン、小澤は2節から4節まで3試合連続で先発出場を果たしたものの、その後は控えに甘んじることになった。長く故障で戦列を離れていた日本代表候補の東口順昭が復帰したからだ。

「自分としては、そういう経験は在籍したどこのクラブでも経験していたことだったので、"この試合(で交代)かな"というのはなんとなく分かるようになっちゃったんです。こういうもんだなっていう思いで受け止めてきましたね。ただ正直、Jリーグでは一番手と二番手の健全な競争が乏しい。僕は、競争することは大事だと思うんですよ。一番手のGKにとっても競うことで技術も上がるし、ケガをしない肉体もできるはずですから」

 小澤は怒りや不満を示すというより、諦念した口調で語った。

 シーズン終盤、天皇杯の3回戦で福島ユナイテッドと対戦したとき、小澤は新潟のゴールマウスを守っている。J1残留を争う最中、三つもカテゴリーが下の相手だけあって、試合出場機会の少ない選手ばかりの1.5軍の布陣。新潟は優勢に試合を進めるも、多くの好機を決めきれず、カウンターを浴びて敗れ去っている。これが小澤にとって新潟での公式戦、最後の試合になった。

「試合が終わった後、ほとんど狂いそうでした」と小澤は白状する。情念の奔流を抑えきれなかった。

「福島の選手は、たとえ無理だと分かってもボールに飛び込んできました。でも、新潟の選手は球際でケツを向けていたんです。失点シーンも、二人をフリーにして叩き込まれていました。それで試合後、『これで残留戦に集中できる』なんて声を聞いて、今日は勝負じゃなかったのかって、涙が止まらなかった。ストレッチが終わっても、しばらく立ち上がれなくて。でも、そのときにブラジル人選手から『ヒデ、それがフツーだよ。試合に負けて納得しているなんて恥ずかしい』と言われ、少しだけ救われました。

 新潟には新潟のやり方があるんだな、というのも分かるんです。サポーターは優しく接してくれるし、選手は真面目。それはそれで素晴らしいことだと思います。だから、周りと自分を見比べるのではなく、自分自身が日々をどう生きるか、ということだけを最後は考えるようになりました。もっとも、パラグアイで自分を解放してしまっただけに、いつも葛藤は抱えていましたが」

 チームが残留を懸けて戦う中、彼は磔(はりつけ)にされたような気の重さで、退団を心に決めていた。その後に行く宛はどこにもなかったが、のたうち回るうちに精も根も尽きてしまった。シーズン終盤、東口が再び故障で戦列を離れたとき、セカンドGKとしてメンバーに入っていた小澤の立場は変わらず、GKを任されたのがサードGKだったという屈辱も相当に大きかったはずだ。

 12月の最終節後にクラブから、「来季は契約しません」との項目に印がされた通告書を手にしたとき、「詳しく説明したいから」というクラブの意向を振り切り、その翌日には彼を待つ家族の元に戻っている。
(続く)

小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki