(※写真はイメージです/PIXTA)

写真拡大

定年後に「やりたいことを全部やる」という考え方が広がるなか、夢を叶えたあと、生きる目的を見失う高齢者も少なくありません。世界70ヵ国を旅し、誰もが羨むセカンドライフを送った夫婦が直面した現実を通して、現代の老後に潜む新たな落とし穴をみていきます。

「夢だった世界一周」の先

「定年したら世界を見て回る。それが人生最大の目標でした」

そう語るのは、神奈川県在住の田村浩一さん(65歳・仮名)。妻の恵子さん(63歳・仮名)とともに、会社員生活を終えた60歳からの5年間を旅に費やしました。

大手メーカー勤務だった浩一さんの退職金は約2,300万円。企業年金もありました。夫婦の金融資産は退職時点で約4,800万円。住宅ローンは完済済みです。

「老後資金2,000万円問題なんて関係ないと思っていました」

夫婦は退職直後から海外旅行を始めます。最初はヨーロッパ。次に南米。アフリカ、中央アジア、中東へと足を延ばしました。5年間で訪問国は70ヵ国。年間の旅行費用は平均500万円前後でした。

「今しかできないから」

そう考え、ビジネスクラスを利用することもありました。資産が減っても不安はありませんでした。65歳時点でも金融資産は約2,300万円残る計算でした。毎月の年金収入も夫婦合計で約28万円あります。数字だけ見れば、十分に恵まれた老後でした。

ところが、帰国して半年後から状況が変わり始めます。

「この先の人生に、楽しみがないんです」

浩一さんはそう振り返ります。

世界中を移動していた日々が終わりました。航空券を調べることも、次の目的地を考える必要もありません。

朝起きる。

朝食を食べる。

テレビを観る。

昼食を食べる。

またテレビを観る。

その繰り返しでした。

「夢を全部かなえてしまったんです」

浩一さんは苦笑します。しかし、その表情に明るさはありませんでした。

気づけば会話も消えた

変化は夫婦関係にも現れました。旅の最中は毎日会話がありました。

現地の情報を調べる。

次の予定を相談する。

トラブルを一緒に解決する。

常に共通の目的がありました。ところが帰国後は違います。

「今日はどうする?」

「別に」

そんな会話が増えていきました。さらに恵子さんは続けます。

「旅をしているときは、四六時中、一緒にいて楽しかった。でも今は一日中ソファに座ってテレビばかり」

一方の浩一さんにも不満がありました。

「家にいても居場所がない。何をしても文句を言われる」

些細なことで口論が多くなったといいます。

老後「お金がないこと」よりもツライこと

食費含めた1ヵ月の生活費は、固定資産税を見据えた積立を含めて20万円前後。月々の年金のなかで賄うことができ、さらに貯蓄に回しています。家計に関して、不安は一切ないといっても過言ではありませんでした。しかし、幸福感はありません。

実際、内閣府の「第10回高齢者の生活と意識に関する国際比較調査」によると、日本の高齢者で生きがいを「大変感じている」と答えた割合は22.8%にとどまり、アメリカ(43.5%)やスウェーデン(51.6%)などの欧米諸国に比べて低い水準にあります。一方で、日本の高齢者が生きがいを感じる時としては、「子どもや孫など家族との団らんの時」が53.1%で最も高く、次いで「おいしい物を食べている時」が49.4%となっています。日常のささやかな喜びや家族とのつながりが、幸福感を得るための鍵といえそうです。

浩一さん自身、その意味を痛感していました。

「お金の不安より、生きがいがないほうがつらいですね」

老後20〜30年、何のために生きるのか

ある日、恵子さんが言いました。

「もう旅行はいいかな」

浩一さんは驚きました。

「なんで?」

「体がしんどいのよ」

旅は夫婦共通の夢であり、趣味でもありました。「世界を見て回る」という夢を叶えたあとも、年に数回は、国内旅行を楽しもうと話していました。しかし、それすら終わりを迎えていたのです。

近年は健康面の変化も出始めています。浩一さんは高血圧の薬を服用中です。恵子さんも膝痛を抱えています。長時間の移動はむしろ苦行です。

「旅の思い出が人生のピークになってしまった気がするんです」

もう夫婦で旅行は難しいかもしれない、というなかでも、浩一さんは旅行サイトを眺め続けます。旅の最中に撮った写真も何度も見返します。

厚生労働省『令和6年(2024年)の簡易生命表』によると、日本人の平均寿命は男性が81.09歳、女性が87.13歳。65歳時点の平均余命は男性が23.63年、女性が28.92年。原則、年金受給が始まってから20〜30年近くの老後があるというのが一般的です。

現在、夫婦の金融資産は増え続けています。子どもは独立し、それぞれが家庭を築いています。住宅ローンもありません。老後破産の危険性は高くないでしょう。それでも、浩一さんはこう言います。

「あと20年生きるとして、何をすればいいのかわからない。何を楽しみに生きていけばいいのかわからない……」

旅に代わる何か、果たしてそのようなものは見つかるのか。まるで出口のないトンネルに迷い込んだようだ、と浩一さんは話します。